ブラッドリー『論理学』53

 §76.単称判断の唯一の希望は完全な断念にある。仮言的であっても、抽象的判断は自身よりも真であることを認めねばならない。判断のクラスの最も低い位置で満足しなければならない。その要素で実在を性質づけることをやめ、一般的な形容のつながりを認めることだけに専念し、個別の存在からは離れなければならない。「ここに狼がいる」や「この木は緑だ」で「狼」や「緑の木」が実在する事実であることを意味するのではなく、狼とその状況にある諸要素との、「緑」と「木」との一般的な関係を主張しなければならない。それを個別的な事実に関するいかなる参照もなしに、抽象的な意味において行なわなければならない。その低次の基本的な形においてそれは科学的法則に向かうが、その元々の主張は完全にあきらめ、真理への階段に足をかけるのである。

 

 §77.しかし、それはまだ非常に低い位置にいる。知覚に関するあらゆる判断がある意味普遍的であり、そうでないなら、それを推論の基礎として使用することはけっしてできない。陳述は個別の事例を越え、「これ」、「ここ」、「いま」とは関わりなく真である性質の関係を含んでいる。もしその観念内容を<この>実在に帰するなら、それが単称的であることは間違いないが、もしそれを観念内容の<内部における>総合を主張しているととるなら、知覚を超えている。というのも、同じ条件であれば、いかなる場所でも同じ結果が得られるだろうからである。総合は、ここやいまにおいてではなく、普遍的に真なのである。

 

 だが、この真理は、性質の関連が事物に浸透したものであるために、最も基本的なものである。概念内容は無限の関係に満ちており、我々の陳述が仮定する最初の曖昧な形では、一方において総合とは関わりのない要素を考えに入れることになり、他方ではそれを構成するのに必要なものを取り逃がしてしまうこともある。例えば我々は「このものは腐っている」と言う。しかし、それはこのものであるために腐っているのではない。実在の関連はもっとずっと抽象的である。また、<そこに>あるだけの他からの影響を受けないなにかのために腐っているのでもない。一方では我々は不必要な細部をつけ加え、他方では本質的な要因を取り逃がしている。ある場合には、我々は「実在とはこうしたものであり、abcが与えられたとき、dがそれに続くだろう」と言うが、実際のつながりはa-dでしかないのである。また別の場合には、aがbと必然的なつながりをもっておらず、総合の真の形はa(c)-bであるのに、「この関連はa-bである」と言う。科学的な正確さの基準から言うと、最初の形は常に間違いであるに相違ない。それは少なく言い過ぎているか、多く言い過ぎているか、あるいはその両方である。上の段階に登るには無関係なものを取り除き、本質的なものを当てることでそれを修正しなければならない。*

 

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*1:*その解説と例示には、上で述べたロッツェの見事な章を参照しなければならない。