ブラッドリー『論理学』30

 §30.個的なものとしてしか存在できないと我々が感じる実在の完全性を見いだそうという努力は、まず最初に、時間と空間の総合的判断に我々を導くだろう。しかし、先に進む前に、この試みの一般的な性質について考えてみよう。もし実在が自律的で、自己充足的、完全なものなら、この性格が単なる現象の系列に見いだせないことは労なくわかることだと思われるかもしれない。この系列の<なかに>実在を探し求めることと、それを系列<として>見いだそうとすることはまったく別のことである。時間や空間の完全な系列は存在することが可能ではない。それはよく知られた擬似的無限の幻影で、ある種の目的、あるレベルの思考には有効な虚構かもしれないが、それでも幻影というのは、それと認められるまでは、真の哲学的思考を阻害する。それはしばしば「経験」の学派の論理学や享楽主義的倫理学から発し、そこで彼らはキメラを得ようとし続けている。このことにはこの章でまた立ち戻ることになるが、いまは現象の系列に実在を探る試み、まだ幻影を追い求めるまでには落ちぶれておらず、錯覚の根に迫る試みに戻らねばならない。

 

 §31.実在は現前を超越し、我々を所与を越えた場所に連れ出そうとする。他方、我々は現前以外の場所では実在に接し、現実に触れることはないように思われる。知覚された実在を指し示すことができないとするなら、内容はどのように実在と関係をもつのだろうか。内容は<間接的に>実在を指し示すのだと答えなければならない。それは与えられたものそのものに向けられるのではない。現前しているものとの関係を打ち立てることによって、その所与にあらわれている実在に向けられるのである。それは現前に見つけだすことはできないが、実在を性質づけているために真であり、直接的な知覚との関係を確立しているために唯一無比である。感覚される空間を越えた空間の、現在だけでなく過去と未来を含む時間の観念世界は直接的なこれの性質に結びつくことによって現実の世界に結びついている。一言で言えば、内容の連続性は要素の同一性をあらわしていると捉えられる。