トマス・ド・クインシー『スタイル』28
そう、やはりギリシャ文学は我々が定めた点、アレキサンダーの時代に終わるのである。ギリシャの土壌、ギリシャの根から心を圧倒するような力、哲学大系、創造的エネルギーの範例となるようなものは再び現われることはなかった。想像力は死に絶え、火山は燃え尽きた。キリスト生誕まで残された三世紀の間にとびとびに現われる本は非難の的であるか、より一般的にはその存在を認められていない。キケロその他から知ることのできる表題、その題材、題材の扱い方を見ると、それらは専門的な本、学生向けの教科書、あるいは論争書であるのは明らかである。修辞学と哲学の講座はそのときアテネに設けられていた。大きな大学があり、各国からの学生が集まり、ある意味では永続的な進歩を保証するに十分なものがあった。中世の学生たちに働いていた二つの相反する欠点、つまり、まったくの単調さからくる退屈さと宙に漂っているかのような思索の非現実生のために、本は職業的義務からの解放として、あるいは職業的関心の追求として書き続けられたのである。<最善のもの>は人間の生における<最悪のもの>が苦悩の種となったときに論じられた。それらなしに文学は存在しなかった。そして、より人間的なローマ人の間で笑い話や嘲笑の種でしかなくなったギリシャ哲学やギリシャ修辞学の夢見がちな怠惰の生んだものは、文学ではなく、芸術学校を作るような王立機関の生徒の手になる学術的研究だった。
それ故、紀元前三三三年、アレキサンダーの時代において、ギリシャの愛国者すべてが自国の文学をVenimus ad summum fortunoeと正当に言うことができる。最良の日はここにあり、我々はギリシャのスタイルの理想、ギリシャの文章理論を最上のものを生み出すことの<できた>二つの時代のうちに求めなければならない。ギリシャの知的力の初期の系、ペリクレスの時代にはスタイルの力は最も包括的に働いていただろう。第二の系、アレキサンダーの時代には意識的な認識とその直接的な吟味の光が最も効果的な形であてられた。最初の時代は具体的な範例が、第二の時代は抽象化の技術がもたらされた。この二つの時代の間にスタイルについての全ギリシャの考究がもたらされたのである。これだけのことがあって、ではその実際の帰結はどうだっただろうか。