トマス・ド・クインシー『スタイル』27

 さて、こうしてギリシャ文学全体を見渡せるような場所に辿り着いたわけだが、いくつかの説明が必要だろう。ホメロスは、ヘシオドスは、ピンダロスはどこに行ったのか、と読者は尋ねるに違いない。ホメロスとヘシオドスは紀元前一千年前、少なく見積もったとしても九百年前後に生きていた。我々が知るところといえば、彼らがトバルカインと共に生きていたかもしれないというくらいである。いずれにしても、彼らはペリクレスの時代に動き始め働きだしたような権力や機関に属していなかった。ピンダロスもまた、紀元前五百年以上前にテーベにおいてよくわからない影響のもとにでた特殊な存在である。ピタゴラスと同じ時代だと言えるかもしれない。彼らはみなペリクレス<以前>としてくくることができる。

 

 次に、アレキサンダー<以後>の時代について言えば、ギリシャはこの時代以降精神は散りぢりに、<自律性>は失われ、以後は一人の天才を、国民精神に影響を及ぼすことができるようなたった一人の作家を生み出すのに必要な力も結集することができなくなったのは確かである。カリマコスはどうということもなく、何よりギリシャ人ではない。テオクラテスは、ある限られた意味で真の天才であり、アングロ-アメリカ人が英国人というような意味ではギリシャ人である。だが、ツバメが一羽来ただけで夏にはならない。他の作家、明らかに神的な才能をもつメナンドロス以外に我々が有しているのは二、三の残骸でしかない。更に、独創的な力をもつ詩人アナクレオンを除くと、残骸すら有しているか確かではないのである。ある名が冠せられるような時代があったかどうかは非常に疑問である。誰でも知っているようにプルタルコスルキアノスは紀元<後>の時代に属する。そして、そのできばえよりは扱われている事柄に価値のあるギリシャからの移民の歴史家はあまりに強くローマ文明と結びついているので、彼らをギリシャ文学と関連づけて考えるべきではない(注1)。スキピオ二世の時のポリヴィウス、ローマの作法が絶頂に達したときのディオン・カシウス、アッピアマルクス・アウレリウス帝やユリアヌスよりはギリシャ語で書いているが、ローマ人に他ならないのは、途方もない気取りから彼らはその内容の貧弱な覚え書きをギリシャで書いているだけなのである。ギボンが英国人ではないと、ライプニッツがドイツ人ではないと考えられるのと同じことで、というのも前者は文学についてのエッセイの草稿を書くとき、後者は『神義論』を書くときにフランス語を用いたためである。動機はみな同じである。ギリシャ語で書くのは、無知な大衆を排除した教養人士、知識人の仲間入りをしたという気取りである。フランス語を用いるのは特殊な社会習慣に共感をもち、文学的、哲学的な先入観からその議論を進める思想家たちのなかに入りたいという気取りである。

 

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*1:(注1)断片的な作家を除いて──サフォーやシモニデス、それにギリシャの詞華集に取り上げられるような人たち(それらは劇文学の後ギリシャの日常的な感情について最も興味深い表現を見せてくれているが)──我々はこの手早い概観において、リコフロン以外には重要な名前を落とさなかったと思う。彼については二三言述べよう。彼のものとして知られている作品は一人の語り手の口から発せられる独白や劇的場面である。語り手は予言者プリアムの娘カサンドラである。千五百行程の短長格(ギリシャ悲劇の標準的な長さ)で、彼女はトロイ戦争に係わる英雄たちについて暗い予言を述べるが、その歴史を知る我々には自然に理解される象徴的イメージによって多様で不幸な破滅を類型化するものの、(特別な出来事や状況が選ばれているので)語り手の助けなしには謎のように読める。この記憶に残る戦争では征服した側にもされた側にも多くの苦悩があり、予言者の暗鬱、情熱的な人物がリコフロンのカサンドラに暗い力を与えている。でなければ、我々はこの詩のよってさほどの印象を受けなかったと告白したろう。我々がこれを読んだのは一八〇九年で、ギリシャ語で最も難しい本だと言われた。それは一般的な印象であるが非常に間違っている。言葉の点ではまったく難しくはない(若干のリコフロン風の言葉があるが)。困難なのはほのめかし、<意図的な>曖昧さである。リコフロンは我々が食の時にしていることをした。つまり曇りガラス越しに見るのである。