ケネス・バーク『動機の修辞学』 48

.. 「神話的」基盤と「状況の文脈」

 

 感覚的イメージと神話的イメージには本質的な差異はないと考えられる。両者とも、単に、観念の修辞的な補強物として扱える。それゆえ、公的な表現として社会的に流通し、多かれ少なかれ限定的集団の個別な観点をあらわし、普遍的妥当性のもと特殊な利害を得ようとしている点において、三者とも「イデオロギー的」だと言えるだろう。マンハイムの考察もこれに基づいて進められているように思われる。

 

 しかしながら、プラトン的形相を額面通りに受け取り、弁証法的構造によって分析するなら、観念が感覚的イメージを超越し、神話的イメージが観念を超越する究極的な秩序を見いだすことになる。最終的段階には、道徳的知的発達、訓練と加入儀礼を通じて到達されよう。こうした形式的手順は教説の説得力を高めることとなろう。その主張を疑ったとしても、修辞的技巧として我々の注意を要する。

 

 論証的理性が弁証法的だとすれば、神話的イメージは理性を超越する動機を形づくるものとして扱える。また、経験的な検分では手に入れられない人間と究極的な諸動機の基盤との関係をあらわすことができるであろうから、「宗教的」であるとも言える。

 

 かくして、様々な可能性がある。観念論的で自己愛的な美的神話(ハート・クレーンのような)を手に入れることもできる。「無意識の」動機が神的なものと同一視できる限り(両者とも論証的理性の領域を越えているということによって)、「美的」神話は「宗教的」神話の代替物となり得る。

 

 こうした混同がどの程度まで正当化できるかここで決めようとする必要はない。武器にまつわる多くの冗談に見られるように、「宗教的ガンマン」の「神話的」姿は多くの曖昧で「無意識な」性的動機をあらわすと指摘しておけば足りる。また、深遠なスタイルというのは、罪の「謎めいた」告白であるとともに、象徴的な昇級の主張であり得る。この昇級は、厳密に物質的な利害の希望と比較すれば「精神的」だと言えよう。そして、様式化された謎めいた告白の公的な受容は、詩人に対する遠回しな免責なので、そこにもまた倫理的に動機づけられた宮廷作法が存在するだろう。なぜ含意に飛んだイメージが、むき出しの感覚的なものよりか超越的な「神話的な」ものと感じられるかを理解するのはたやすい。

 

 かくして、いまでもしばしば、倫理的な神話において、イメージは超越的な観念と捉えられるが、単なる観念の侵入は嫌われる。たとえば、どれほど多くの読者がキーツの「ギリシャ壺のオード」の最終連にある美の教義に反対するか考えてみればいい。あるいは、「老水夫の詩」を締めくくる「道徳」に寄せられる同じような不満を思い起こしてみるがいい。恐らくこうした抵抗は、大部分、神話的イメージよりもむしろ観念が展開の最終段階になっている事実にある。こうした「究極」を受け入れ可能なものとするには、また別の分析が必要である。

 

 キーツの詩については、そこには「謎めいた」意味が含まれているのではないかという気にかかる予感がある。それが正しいなら、その意味は、キリスト教的情熱をすっかりロマン主義的情熱に変化させた詩人にとって、美に対する神聖な勤めが<下水の上の教会>でなされうるものである限り、「ジョイス流に」、つまり、「美」と「真実」とを同じ語族に属するまで地口によって、できれば猥褻な意味をもつよう変形することで最もよく得られる。内気と用心深さのため、長いこと我々はこのオルフィウス的な発言の意味を明らかにすることを妨げられてきた。(その方法の一例を挙げれば、「美beauty」に即座に見て取れる意味の一つは「身体body」であり、「真理truth」は二つの文字を入れ替え、子音の一つを別なものと交換することでジョイス流に意味深いものとなろう。)

 

 コールリッジの「道徳」についてはこうである。麻薬との一体化によって複雑になっている彼のロマン主義的な耽溺において、純粋に道徳的な努力によって、あるいはより正確に言うと、<道徳化しようとする>努力によって繰り返し救われる場面があった。ロマン主義の倫理的慣習では、通常、強迫的な形象からの理性的回復は作品にあらわされるべきではなく、作品外で処理されるべきだとされてはいるが、それがまさしく彼の真実であったから、誰にとっても幾分かは真実であろうと我々は信じるのである。

 

 しかし、明らかに、「究極的な」根拠を指し示すものがいかに「神話的」であっても、それ自体は、社会学的に記述できる特定の時間において生じてきた。この意味で、その個別の利害はマルクス主義の「イデオロギーの神秘化」の分析によってあらわにされる。あるいは、より和らげられ、中立的なマンハイムの遠近法主義を使用することもできる。あるいは、実証的なレベルでのより一般的な分析である、ブロニスロー・マリノウスキーが「原始言語における意味の問題」(オグデンとリチャーズの『意味の意味』の補遺として出版された)で説明し展開した「状況の文脈」という概念を使うこともできる。

 

 そこでは、マンハイムの著作よりも言語的行為と非言語的な場面との関係が、より一般化された形式で述べられているが、それは、マリノウスキーの人類学では、言語に影響を及ぼす部族的な均質性に重点が置かれているのに対し、マンハイムは、むしろ、社会の際だって不調和な要素を超越するための洗練された技術に関わっているためである。社会的多様化の始まりは、マリノウスキーが研究している部族社会にも十分に見て取れる。その生活様式にはすでに、労働の分化とそれに伴った社会的身分の相違、役割の多様性において行動の一貫性を維持する修辞的技巧としての魔術の使用(神秘化)がある。しかし、ここで重視されるのは集団的側面における言語の分析であり、議会的なアゴーンの観点である。

 

 マリノウスキーは、ニューギニアポリネシア人たちの調査を通じて集めた記録を英訳する際に直面した問題について記している。「魔術の文句、民話、語り、断片的会話、情報元の言葉」などである。その多くには、直接に対応する言葉が見つからなかった。それゆえ、「現地の語を一語一語、英語に入れ替える」翻訳の代わりに、そうした記録に含まれる慣習、社会心理学、部族組織を記述する必要を理解したのである。

 

 その必要を一般化して、彼は「状況の文脈」という表現を提示したが、それは次のようなことである。

 

一方において、<文脈>という概念が拡張されねばならないこと、他方において、言葉が発せられる<状況>を言語表現には無関係なものとして無視することは決してできない。

 

 

マリノウスキーはこの言葉を、生きた、原始的な、語られる言葉に当てはめ、それを「その本性上いかなる状況の文脈からも孤立し」、既に使われなくなった古典的言語の記録と対照的なものとした。というのも、そうした文章は「自己充足的で、自明の明らかな目的のために」書かれたと考えられるからである。しかし、我々は既に、ベンサムマルクスの考え方によって、そうした洗練された記録であっても、状況に左右されるものであることを考察した。以前にも言及した「中世のレトリック」でリチャード・マッケオンは次のように書いている。

 

ピーター・アベラールが明らかに相矛盾するテキストをそのSic et Nonに集めたとき、序文で彼が明らかにしたそれらを解釈するための規則は、長い時間をかけて教会法学者が洗練させてきた規則を発展させたものだった・・・それには、文脈を注意深く考察すること、テキストの比較、時間、場所、人物の特定、発言の元々の意図の決定、一般的基準と特殊基準とを区別することなどが含まれている。この方法が更に進むと、矛盾の弁証法的な解決になるが、この段階においては、方法は、弁証法的というよりはむしろ修辞的である。

 

 

こう修辞を勘案することは、明らかに、形式的な記録文章であっても、言語外的な状況に関心を払うことになる。スコラ哲学であっても、マリノウスキーが人類学で考察したことと異ならない。「状況の文脈」の原理が、あらゆる言語表現に適用されることを示している。

 

 マリノウスキーの人類学的(あるいは民俗学的な)方法は、言語的行為と非言語的な場面との関係をもっとも一般的な形で示す一種の「科学的挿話」として価値がある。そして、彼は原始的な発話において、「記述ではなく、行動を生みだす」プラグマティックな言語の使用を研究しているので、彼の議論は、発話の修辞的要素一般を例証する教育的目的に特に役立つものである(オグデンとリチャーズの「語の力」の章とともに)。

 

 言語行為の言語外的状況についての修辞的な関心は、意味の側面から見ると、すべて、実際の語彙のうちにあり、感覚的経験の諸条件(感覚的イメージと概念の領域)にその根拠をもっている。しかし、それらはまた諸関係と諸条件をも扱う——そして、しばしば高度に合理的な解釈を必要とするので、我々は弁証法的な秩序へ向かうことになる。特に社会的政治的領域において、重要な諸関係や諸状況がなんであるかについては多様な体系的理論があり、競合する主唱者が互いに対立しあっているので、究極的な秩序に還元することによる弁証法的妥協あるいは弁証法的解決が必要となる。

 

 また、技法的な意味においては、神秘的で究極的な根拠ばかりでなく、実証的な社会学的根拠でさえ、言語行為を「超越する」ものと扱えることは記しておく価値がある。というのも、それは言葉とは別のものであり——言葉を実証的に還元することは、あらゆる言語的説明が「示唆的」である限り、「神秘的な」要素を含まなければならないからである。語り得ないものの神秘とともに、象徴的に生まれてくる神秘がある(たとえば、広く行き渡っている社会秩序の位階的精神病を通じて自然を見ると、自然の事物は、自然に固有のものではなく、所有関係から二次的に生じる契約と奪取の象徴となる)。

 

 しかし、こうした考察は、技術のもっとも純粋でプラグマティックな側面にさえ「神秘的な」要素がある点を自問するには必要であるが、通常の目的に際して我々はそう厳密ではあり得ない。大雑把に言って、マンハイムの知識の社会学は、現代のリベラルな科学が「イデオロギー」の超越を目的とする際の代表的な方法であるように思える。どちらがよりいいかを決めようとする「ねたましさの」要素なしに、レトリックの本性を例示しようとするなら、それをプラトン的対話の方法と対比できる(修辞的党派性から究極的な秩序による解決に向けての弁証法的過程を代表するものとして)。実証的な真理を求める社会関係についての「科学」は、イデオロギーと実在的な用語との相互関係を認識し、イデオロギーが仕える非言語的な条件を指し示そうとするだろう。そうして、意見(レトリック)から知識(レトリックに対立すると考えられる)へと進もうとするだろう。その後に、修辞的と呼べるような生き生きとした訴えかけるところのある見せ方(キケロのdocere)、ある種のレトリックが導入されるだろう。

 

 弁証法的方法も、この意味において修辞的となろう。しかし、他の修辞的要素も同じように使われているのが認められる。第一に、劇的アゴーンの修辞、それぞれが他方を打ち倒そうと敵対する党派の衝突がある。次に、弁証法的な解決の修辞的魅力、そうした闘争を体系的に超越する形式的満足がある。最後に、enargeiaの修辞があり、形象を越えた新たなヴィジョンが「眼前に彷彿とされる」(もっともこの明快さは科学的説明の明快さとは同じではなく、科学的説明が経験的知識をより生き生きとさせるために形象を用いるのに対し、それには経験的な領域を越えた動機をあらわすために「神秘的」イメージを使用することが含まれている)。

 

 修辞分析の目的にとっては、これらの方法のどれかを選択する必要はない。それらの相違と、修辞的、弁証法的要素がそれぞれでどのように働いているかに注意する必要があるだけである。更に、この二つが常にはっきりと対立すると考えられるわけでもない。マンハイム千年王国説の修辞的働きを考慮したとき示そうとしたように、諸動機についての洗練された言明には多分両者が含まれることになろう。