ケネス・バーク『動機の修辞学』 44

.. 「幼年期」、神秘、説得

 

 修辞学的に考えると、象徴の説得力として「謎」の要素を受け入れることは、「魔術」や「神秘」を階級文化の受動的な反映であると同時に、文化的な凝集を維持する能動的な働きと見なすよう促すことになる。こうした説得の弁証法については、体制に関する次の部で更に考えることになろう。

 

 「秘密」はしばしば、厳密に経済的な内密さに関わっている(収入や預金額を一般に知られる不快感を考えてみるがいい)。だが、こうした秘密主義は(恐らく貴重品としての金銭と性器との密かな同一視がそこには含まれているだろう)ほとんどいまだ未知なままの「幼児期」に突き当たり、そこには、少なくともあらゆる表現には表現されない諸要素の収斂があるという厳密な事実から発する「言葉にできなもの」あるいは「語り得ないもの」が含まれている。

 

 例えば、巻き貝の螺旋の対数による発生原理をある「行為」として感じることはできても、「幼児期」でそれを数学的式に還元できないとき、ある種の直観によって、夢の「無意識」の領域に重ね合わせることがあるだろう。他方、螺旋の数学的定式への正確な還元が、いかにかけ離れたものであれ、その表現において「謎めいた」形象、詩的な性質(薔薇色、葉鞘、肉付きなど)をもった昼顔の観念を含んでいるなら、数学的表現は、いかに明瞭で厳正なものであっても、その抽象性のうちにある種の「幼年期」をもっている。それゆえ、いまだ公式化されていない、形象の基礎をなす純粋に言語学的な原理においてさえ、幼年期の神秘が存在する。「幼年期」は照応の理論においてますますはっきりとあらわれ、そこでは経験的対象が、それ自体は見ることのできない発生原理の象徴として扱われる。そうした神学的図式は「物神崇拝的な」社会に相当しており、そこではすべての対象が特権や欠乏のしるしをもつものとの隠然たる、あるいはあからさまな同一視によって「魔術的な」属性を吹きこまれている。

 

 そうした社会的神秘のもとには、究極的には幼年期の直観に還元される自然の神秘が存在する(感覚や季節の直観における「語ることのできない」要素)。詩人の春のイメージがなにをあらわすかについては議論の余地がある(中世の寓話的、教訓的、神秘的意味づけの代替物として)。しかし、いずれにせよ、そのイメージは、実証主義的な「事実」としての春以上のものをあらわす共鳴から生まれている。

 

 春の「直観」は単なる受動的な知覚でも、感覚された(たとえそれが超感覚的であっても)<知識>の所与でもない。それはある種の<共演>であり、春にアルテミスの歌を聴き取る我々の「直観」が、空気のふるえを単に感覚的に感じとることでも、歌われている春の帰還に対して単に身体的に反応しているのでもなく、広範囲にわたる意味との、そのある部分は本来「春とは関係をもたない」ような意味との共演なのである。ここでの「神秘」は、分節された調性の<イメージ>が部分的に分節されていない<行為>をあらわしている事実にある。こうした、いわば観照的行為の原理は観念として定式化されるが、それは観念には行動と劇があるからである。より正確に言うと、直観的に鳥のさえずりと共演できるときに、我々は春の<観念>に反応していると言えよう。そして、この観念は、完全な形においては、恐らく個人的、性的、社会的、普遍的な裏づけを含むものとなろう。

 

 経験的に言うと、神学者が神の究極的な単一性として論じるものは、言語原理の究極的な単一性と等しい。かくして、修辞学は弁証法の断片から作り上げられる。というのも、説得のための表現は、直観の単一性を幾つかの語や声にばらばらにすることによって幼年期から逃れようとするからである。それは遊撃性と脱境界性によって定義される。それらの語は明瞭さをもたらすが、別の次元では混乱でもある。というのも、弁証法的原理を修辞学の説得に転換することは、ある意味、構成の原理を「忠節」、分離の原理を「反抗」と呼び、それに従って、代数における加法と乗法を「純粋な忠節」、減法と除法を「絶対的反抗」として扱うようなものだからである。(ピタゴラス流の数の思想は明らかにこのようなことを行なっていた。「エデン」と「失墜」とは構成と分離をあらわす神話的な用語である。こうした用語は、その最終的な弁証法的還元に関する限り<隠蔽>である。しかし、また、それらが複雑な、個人的、性的、社会的、普遍的な動機をまとめ上げ、あらわしている限りにおいて、ある種<暴露>を含む謎なのである。いずれにせよ、それにまつわり修飾する形象が豊富であれば、我々はそれをある種の<実証>として、「構成」や「分離」といった言葉に還元されるだけでは<隠蔽されている>複雑な動機をあらわにするものと見られるようになる。)

 

 総じて、「イデオロギーによる神秘化」は説得に本来の性質に対する「非難の称号」でしかないという可能性を感じとれないだろうか。言語に関する限り、「精神」は「身体」に先行するが、それは言語能力がその使用に先行しなければならないからである。シンボルを使用する動物には、言語原理に関する感受性が存在しなければならない。ごく自然にギリシャ語を操ることのできる部族は潜在的に「文法家」の部族でもある。そして、ある言語の文法を使う能力が他の言語を使用する能力を論じるので、一般的文法への感受性はこのあるいはあの個別の文法への感受性に先行していると言える(個別の場所で歩くことを学ぶにしても、歩行の能力は個別の場所で歩く能力に先行しているのと同じようなものである)。そして、弁証法に対する感受性は、少なくとも、表現と解釈の行為が「物的対象」ではないという意味において「精神的なもの」である。

 

 「精神のイデオロギー的な先行」(そしてそこから生じる「神秘化」)が説得に潜在的に含まれていることを示す段階がある。

 

 (1)説得はコミュニケーションの一種である。(2)コミュニケーションは異なるものの間にある。(3)しかし、相違は単に<この>存在と<あの>存在との間に感じられるものではない。むしろ、現実的には、<この種類の>存在と<あの種類の>存在との間に感じられる。(つまり、存在間のコミュニケーションは存在の<クラス>間のコミュニケーションとなる。)(4)種類間での説得を目したコミュニケーションは(つまり、同一化による説得)<宮廷作法>の抽象的な範型である。そうした訴えかけ、請願は技術的には愛と等しいだろう。(5)しかし、宮廷作法、愛は「神秘」である。というのも、愛は異質な存在同士のコミュニケーションであり、異質であることは神秘の条件だからである。(6)宮廷作法が<集団の>諸関係にまで達すると、性的差異は<社会的な>階級間の相違と類似性をもつ。(7)こうした観点からすると、階級間の交流につきまとう敬意、困惑、イロニーには、カーライルの「衣装」、ディドロの「身振り」、エンプソンが扱った牧歌に似た<ジャンル>、あるいはエンプソンが「喜劇的しかつめらしさ」と呼んだためらいがちな姿勢が存在する。(徹底的な憎悪は連続性を断ち切るが、それは反連続性の建設によってのみ社会的に組織化される。説得の神秘はカテゴリーとして廃棄されるのではなく、変容されるのである。)

 

 (8)説得は、純粋に物質的な作用による変化とは対照的に、「精神的」である。というのも、ある人間をこちらから向こうに押しやるのが「身体的」なら、対照的に、「向こうに行ってくれ」と言って同じ運動を生みだすのは「精神的」であるからである。(9)しかし、そうした「精神的」コミュニケーションは抽象的である。それゆえ、そこには諸種、あるいは諸階級間における<完全に>抽象的なコミュニケーション(あるいは「宮廷作法」)の可能性がある。(すでに『文法』で記したように)『パイドロス』でソクラテスは、抽象的な宮廷作法の完成した姿を我々に示した。それは<教義>の播種となろう。つまり、<メッセージ>をもたらす<教育>となるだろう。(10)しかし、<知>なしにメッセージは存在しない。そうだとするなら、通常説得とは<対照的な>ものととられている純粋な<情報>からでさえ説得を引きだすことができる。

 

 関連し参照できる事例は無限にある。しかし、それらはすべて同じ命題、シンボルを使用する動物では、シンボルの論理が、その表現の社会経済的意味での「生産力」の結果に「先行」しなければならない、という命題から発している。そして、忘れるべきではないのは、生産力そのものがその発達の多くを言語的な働きに負うていることであって、それは単に、複雑な道具を作り、それを使用する伝統を維持していくためには言語が必要だというだけではなく、より根源的な意味合いにおいてである。というのも、動物も道具を使用するから、人間に特徴的な発明は道具の使用ではなく、道具を作るための道具の使用にある。この一歩進んだ洞察、反省的な性質は言語における洞察に似ていて、言葉は単に事物についてだけではなく(怪しげな人物に吠えかかる犬はそう言えるだろうが)、言葉についての言葉でもある。この「思考についての思考」を許す第二段階は道具を作る道具の発明と完全に絡みあっているので、そうした力は(カーライルが言ったように)本質的に言語的だと言える。

 

 もちろん、言語は欺くために使用でき、その意味において常に「神秘化」の可能性がある。そして、少なくとも、より洗練された吟味を未完成ながらも準備するものとして、修辞分析はこの単純ではあるが至る所に存在する神秘化を暴く準備は常にしておくべきである(神秘化は、大まかにいって、ある特定の集団が他の集団から不公正な利益を得るという「集権的な」ものか、「国外の敵」に自国の失敗による厄介な状況の責めをすべて負わせる「スケープゴート的な」ものに還元される)。しかし、我々がここで問うているのは、より深い神秘化、あらゆる説得に含まれるような神秘化が存在するかどうかである。

 

 宮廷作法の神秘が説得の行為に本来含まれているように、階級の神秘化へ通じるものもまた含まれている。そうした動機は、科学の曖昧で階級的な諸関係にも認められるし、教材は学習者の位階的な<クラス分け>を含んでいる。また、教師のクラスに対立する生徒のクラスが存在する。教師のクラスのなかでも、「嫉妬に満ちた」ランクづけがなされている。こうした迂路を通って、説得が神秘を科学に、通常は神秘化と正反対ととられている学問分野にもたらすのである。

 

 しかしまた、説得には<神学>が含まれており、というのも、神学は<異なったクラス>に属する存在の最終的なコミュニケーションの形であるからである。それは次のような段階を経るだろう。(1)説得の宮廷作法には、愛の、敬意に満ちた嘆願の萌芽がある。(2)この姿勢の<究極>は敬虔に手を合わせる祈りにある。(3)祈りはクラスの相違を普遍化する傾向をもっており、嘆願者はその本質上、嘆願されるものに劣っている。(4)この関係は極限においては、全能の君主と最下層の臣下との対照に達する。(次にそのパターンは、社会的位階として、弱められた形で<世俗化される>かもしれない。)(5)しかし、その「純粋な」形には、議論しうる内容や対象を見いだす必要がある。人はほとんど自らを滅するほど完璧でなければ、単に祈ることはできない。人は<何ものかに>祈らねばならないのである。(6)それゆえ、最も普遍的な形式に還元された説得の<原理>に直接入りこむことは、そうした祈りの<対象>、つまり神を確立する神学者の試みに行き着くことになる(主に<社会的>位階によってこの最終項は利用される)。要約すると、次のようになろう。マルクスが「イデオロギー的神秘化」と看破した「神学」は、<説得の原理そのものの到達点>である。そして、神学の社会的対応物でそうであるように、神学にも説得から科学に至る道筋が内包されている。

 

 もし我々の考え方が正しいなら、こうした神秘化は単なる暴露的な還元によっては一掃できない。原始的部族間に協調をもたらした魔術の高度な発達、現代政治で、右翼、中道、左翼を問わず多く見られる「神秘的なもの」への回帰はより深いところにある要素を指し示していると思われる。人は、自分で考えるよりは徹底的であり、説得の<表面的な>使用にも(行動を促すような単なる呼びかけ)、隠されてはいるものの、説得の<究極的対象>が含まれていることが示されているように思われる。

 

 もしそうなら、説得原理の<究極的な到達点>が些細な説得にも含まれているなら、人は、言葉を単に些細に用いることによって究極的なものから逃れることはできない(愚かなままにしておけば子供の「安全」は保たれると考える母親のように)。戦争か平和かの選択は究極的な選択である。そうした逃れようのない目的に一致してあたる場合には、人は深く関わらざるを得ない。そして、説得の行為は社会的文脈のなかで了解され、どちらかの道筋が取られることになる——そして、いかに些細な間違いであっても、それによって戦争が平和から生じる可能性があるなら、根源的である。

 

 神秘化には、特殊と一般の二種類があると思える。通常、誤りを一掃した背後には強力な社会組織があり、誤りは戦争へと導く誤解を生みだしているものであるから、その発見を喜ばしい知らせとして触れ回るわけにはいかないだろうが、特殊な神秘化を見いだすのにはさほどの困難はないだろう。しかし、第二の、説得の原理の「論理的帰結」としての神秘化を見いだすのは困難である。たとえ我々が、最終的にそうした神秘化の発達が説得には<不可避>ではないと発見したとしても、宮廷作法としての説得の意味合いを徹底的に考えてみようとすると、そうした要素が恒常的な<脅威>、恒常的な<傾向>や<誘惑>として存在すると信じるにたる沢山の理由がある。

 

 少なくとも、我が国の論説記者がつくりあげる「東方ロシア」が「神秘的」だという間違った扱い方の背後には、自国民他国民を問わず、クレムリンスターリンホワイトハウストルーマンよりも「神秘的」だということがある。マルクス主義は階級の神秘を忘れるべきではないと我々に教えてくれる。エンプソンは社会主義社会であっても、それが「牧歌」的な姿をとることを示した。そして、我々が示そうとしてきたように、より精妙な宮廷作法の神秘もまた存在する。

 

 修辞の背後には神秘の源泉も存在する。それは計画を練る秘密に根ざすこともあり得る。あるいは、限界の感覚から来る恐怖に見いだされることもある(そこで、「別の人間なら多分これを越えられるのだろうが、私にはできない」とか、「恐らく充分準備をすれば越えられるだろうが、いまはまだ駄目だ」などと言われる)。あるいは、神秘は「無意識」の、非言語的、言語以後の、超言語的な幼年期のなかにある。非言語的ということで、我々は本能的なものを意味している。言語以後では、語の意味が生じる表現することのできない複雑さをあらわす。(恐らく語とは「言葉を補う」ものであろう。)そして、言葉を通って言葉の限界を超えるなら、超言語的なものは、なんにせよ、最果ての地を意味するものとなろう。それは自然から言葉を引いたものではなく、言葉の土壌としての自然、<言葉の原理を含んだ自然>ということになろう。そのような包括的な自然は言葉以下ではなく、言葉以上の場ということになろう。