ケネス・バーク『宗教の修辞学』 5

第三のアナロジー

 

 第三のアナロジーは、言語と神学の双方で重要な役割を演じる否定的なものに関わる。

 

 言語学におけるコージプスキー学派が一貫して強調している点から始めよう(それは正当なことでもある————というのも、そのことは原理においては明白だが、実際においては繰り返し無視されるからである)。

 

 言語は、正確に用いられるとしても、「割り引いて」見なければならない。とそれが名づける事物の間にいかなる対応があるにしても、語は事物ではないことは心にとめておかなければならない。「木」というは木ではない。事物で得られる結果は語では得られないし、語で得られる結果は事物では得られない。しかし、これら二つの領域はある点まで有効に一致するので、根本的に分かれる領域を我々は見過ごしがちなのである。自然に、素朴な言語リアリズムに赴いてしまう。

 

 これは、次のようにいう数学者のようなものである。「数学のある種の問題は-1の平方根を使って解くことができる。その問題の解決は工学などの分野にも適用できる。であるから、自然科学の学徒は、自然において-1の平方根を見つけだすよう努めるべきである。」しかしながら、-1の平方根がある種の問題を解決するのにいかに有効であっても、それは純粋かつ端的にある特殊なシンボル体系内での表現であり、「自然」をシンボル以下のもの、あるいはシンボルとは別のもの、シンボルを使用する動物とシンボル体系が絶滅したとしても存在し続けるものの意味にとる限りにおいては、それは自然において発見することのできる「事物」ではない。

 

 そこで、否定的なものの逆説とは端的に次のことである。「木」という語が言語であり、木という事物が非言語であるように、非言語的なものに関するあらゆる語は、まさしくその本性において、非言語的な領域をそうではないものによって論ずることとなる。それゆえ、語を正確に用いるには、当然のこととして否定の原理に対する感受性を有していなければならないのである。

 

 こうした否定的斟酌に関する感受性についてのもっとも明らかな形式的例は、イロニーにあり、そのもっとも単純な形は、非AによってAをのべることにある(ひどい天気のときに、「なんてすばらしい日だろう」と言う場合のように)。あらゆる隠喩には似たような斟酌の感情が含まれている。かくして、「国家という船を操る」という表現は、そう発言するものが船員ではなく、国家が船ではないということを知っている限りにおいて、正確に解釈される。

 

 私の眼を大いに開かせてくれたのは、ベルグソンの『創造的進化』の「無の観念」についての章だった。この章は言語理論における主要な一瞬を形づくるものであるのは確かであり、否定は言語に特殊な驚異であり、自然には否定的なものはなく、あらゆる自然的条件は実在としてあるがままにあることを理解させてくれる。

 

 ベルグソンの論点を十分かつ適切に理解するには、その著作に当たって貰うしかない。また、私は「言語の起源に関する『劇学的』取り組み」*といった論文においてその価値を指摘しようとしてきた。ベルグソンは、もし「無」を考えようとするなら、なにかを考えることによってしか可能ではないことを観察することから始める。たとえば、眼を閉じて黒点のことを考えるであるとか、なにかを考え、そしてそれを抹消されたものとして考えるであるとか、あるいは、深淵かなにかについて考える、等々である。「無」の観念がイメージを含む限り、それは「なにか」についてのイメージでなければならず、それ以外にイメージはあり得ない。

 

 

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 あるいは、少々立ち止まり、あるものがなにでないかは永遠に言い続けることができることを理解すれば、論点を捉えることができる。私が取り上げるこのものは実在する本である。林檎でも、象でも、鉄道でもない、等々。それはここに実在する。中国にあるのでもなければ、中世にあるのでもなく、月にあるのでもない、等々。

 

 ベルグソンは、予期に関して否定が重要な役割を演じることを指摘している。たとえば、体温計が37度を指しているかどうか尋ねられたとき、実際に体温計が指しているのは35度、あるいは38度、あるいは42度等々であるかもしれない。実際に体温計が37度以外のどこを指しているにしても、私は「37度ではない」と言うことができる。こうした考察によって、否定的なものは言語的な特殊の発明であり、本質的にシンボル的な-1の平方根のように、自然の「事実」ではなく、シンボル体系の一機能であることがわかる。

 

 しかしながら、劇学的な観点からすると、ベルグソンの主張を一点において変更することができる。彼の発言は「科学的な」方向に傾斜しがちである。彼は「それは・・・ではない」といった文であらわされる命題としての否定から始めている。しかし、劇学的には(つまり、「行為」に関わる見地からすると)、十戒の「汝するなかれ」のような、否定的勧告、否定的命令から始めるべきである。

 

 このわずかな変更によって、我々の問題は「無の観念」から「否の観念」へと転換するだろう。そして、おそらくは、「否」というのは、(「無」のような)逆説的種類の「場所」や「事物」であるよりもむしろ原理であるので、それをイメージによって考えるよう強いられることもあるまい。どうそれを使用するか知りさえすれば、否定的なものの「観念を得る」ことができる。自然における木や岩のようななんらかの実在的な否を「見る」必要はない。そこには、もちろん、語が発せられるときの音、ページにある場合の視覚的対象、多様な文脈でいかにそれを使うかについての感覚、その「観念を得る」ときに必要な神経の活動など、「物質的な」ものが存在しているが、その現実性は原則としてシンボリックなものである。

 

 (ちなみに、ローラ・ブリッジマンやヘレン・ケラーのような、感覚的な不自由によって一般的子供より言語習得が遅れている者の教育の記録を見ると、どちらの場合にも、その教師たちは、特にこの問題を考えたことはないのに、ごく自然に否定的な命令から始め、後に否定的な命題を取り入れているのがわかる。)

 

 道徳的な「否」ではなく半ば実体的な「無」から出発し、否定的なものを「物象化する」傾向にあるハイデガーサルトルといった実存主義者たちは、冷静に問いつめられるべきである。たとえば、ハイデガーの「メオン的な」考え、「存在」が「存在する」ことができるなら、無化することができ、不安が、形而上学的存在の基盤として、非存在の正当性を証明するものだと示唆することによって、象徴的な否定性に半ば実在的な実体性を与えようとする考え方を取り上げてみよう。

 

 高度に一般化された「存在」に達したときにかくあるのが否定的存在なら、ある顕著な弁証法的「進展」が入手される。否定的なものをつけ加え、その結果「非存在」(Nichts)に達するわけで、それを高度に一般化された「存在」と文脈的つながりをもった根拠として扱うことができる。後に残るのはある絶対的な対立である。それが実際に何ものかを指し示すかどうかはともかく、言語的に言えば「筋の通った」操作である。

 

 こうした言語的策略に対して、非妥協的な自然主義的立場なら、単なるナンセンスとして退けることとなろう。しかし、ロゴロジーハイデガーの喜劇をまじめに取るよう勧告するだろう。というのも、もし言語が、究極的にはこうした一般化された否定の使用に通じるものであるなら、そうした含意はそれ自体では全くそのような思考の徹底性をもたない日常的な思考においても存在する可能性は常にあるからである。つまり、「最終地点」には遙かに遠いが、同じ道筋にはおり、十分辛抱強くたどっていけばそこにたどり着くことになる。そうした最終地点が潜んでおり、含意されていて、単に些末なものとして避けることはできない。というのも、もし人間がシンボルを使用する動物であり、シンボル性の究極的な検証が否定原理の直感的感得にあるとするなら、ハイデガー的な「無」の観念にある「超越的な」操作は、我々すべてに不完全ではあるが不可避的に働いているある種の世界観を純粋にあらわしたものだからである。

 

 かくして、実証主義なら単なるナンセンスとして退けるこうした働きを、ロゴロジーは、フロイト派の心理学者がナンセンスな患者の夢を聞くように、注意深く見て取らねばならない。もし、シンボルを使用する動物が自然をシンボル体系として捉えるなら(そうなることは避けられない)、シンボル体系が本質的にシンボル化される領域とは異なる限りにおいて、自然を「超越する」ことは避けられないだろう。そして、そうした領域は、シンボル外的なものシンボルに翻訳することが、なにかをそれとは別の何ものかに翻訳することである限り、必然的に異なったものとなるだろう。

 

 さしあたり、強調すべき主要な点は、言語における否定性のすべての問題、そして、ハイデガー形而上学の同じような弁証法は、神をそうではないものによって定義し、「不死な」、「不変の」、「無限の」、「無拘束の」、「無感覚な」などといった語で神を記述する「否定神学」に類似しているという事実である。

 

 「愛」や「父」という語が神に適用されるときには、実在的なものとしてではなく、むしろある意味での実在物として理解するべきである。というのも、それらはアナロジカルに理解されねばならないからで————アナロジーは、メタファーのように、否定的なものによる斟酌を受ける限りにおいてのみ意味をもつのである。つまり、こうつけ加えねばならない。「『愛』ということで意味されているのは、人々が互いにもつ、単に人間的であるような愛ではない。そして、『父』によって意味されているのも、文字通りの、法的、あるいは自然主義的意味における父ではないのである。」

 

 この意味において、言語がまさにその本質において否定性の原理を含んでいるように、「超自然的な」存在である神は実在的な性質によって記述することができないものであるゆえに、神学は「否定神学」において究極的なものに達する。確かに、「超自然的な」ものが「実際には」実在的なものであり、経験的領域の実在物が否定的と呼ばれうるような文体上の、あるいは弁証法的な仕掛けが存在する。(たとえば、スピノザの言葉、限定されるすべてのものは否定的であるomnis determinatio est negatio。)ここでの目的は、個別の弁証のスタイルに賛成したり反対したりすることではない。我々のなすべきは、そのようなあらゆる思考法にある否定的原理の批判的役割を指摘することだけである。(そして、スピノザについて言えば、たとえば、「秩序」の観念は我々と神では同一であり得ない、実際、神の秩序の観念は我々の無秩序の観念に似ているとさえ言える、といった指摘を数多くする彼の理論は、明らかに否定神学の精神をあらわしている。)

 

 自然の実在性は、倫理感覚の基礎にある否定性の原理(「汝すべからず」)と混じり合うことで「半実在的な」ものとなる。かくして、たとえば、道徳的な禁止の支配下にあるときには、性的な働きを取る。あるいは、告解などのような修道的な訓練は、そこにあるのが実在的な単なる「運動」に過ぎないにしても、倫理の否定性に導かれている。エマーソンの自然に関する、より長いより初期のエッセイには、否定性の原理が究極的な神学的に認められた思考を含むまで拡張されると、自然の実在的な秩序が否定の原理と完全に混じり合ってしまうことを見事に示している箇所がある。

 

感覚的対象は理性の徴候に従い、良心を反映する。あらゆる事物は道徳的である。際限のない変化において、絶えず精神的な性質を指し示している。それゆえ、自然は形、色、動きによって燦然とする。遠く離れたいかなる天体にも、もっとも単純な結晶から生命の法則までを覆うあらゆる化学的変化にも、木の芽の発芽から熱帯の森林や大洪水以前の炭鉱床における植物生活の変化にも、スポンジからヘラクレスに至る動物の働きにも、正邪の法則についての暗示や命令が、十戒の反響が聞き取れるだろう。それゆえ、自然は常に宗教の同盟者である。その華やかさも豊かさも、すべて宗教的感情に従っている。*

 

 

 

*2

 

*1:

*『シンボル行動としての言語』(カリフォルニア大学出版1966年)に所収。その第四節は「否定的なものに関する補遺」と題されている。

 

*2:

*我々はいかなる言語でもそれを適切に使用するには否定的なものの「観念」をもたねばならないと論じているのだが、エマーソンの「正邪」への言及は、読者が根本的に反対の主張をする場合には、処理することのできない問題を引き起こすこととなる。そこには、経験的には明らかな「実在的な」語と「極性のある」語との相違が含まれている。「実在的な」語は直接的な「論理的対立物」を含まないような語であるが、「極性のある」語は論理的反対物を含む。かくして、「テーブル」のような語は「実在的」で、「反テーブル」や「非テーブル」といった相反する語を示すことはない。しかし、「正」、「真」、「秩序」、「然り」などはそれぞれ「邪」、「偽」、「無秩序」、「否」を含んでいる。道徳的(「劇学的」)語彙(「行動」の語彙)はこうした「極性のある」語を中心においている(選択の強い意味合いとともに)。エマーソンからの引用は、(「感覚対象」の)単なる「実在的な」世界であっても、それぞれの「実在物」に対応する「否定的なもの」が必然である限りにおいて意味をもつ「極性」の否定性と混じり合うことが可能なことを示唆している。「主義」は実在的に見られるが、他の「主義」との対立(その幾つかの要素は、逆説的なことに、組み入れられることによって終わりを告げる)によって形成されるので、すべて否定的なものが混じっている。

 ちなみに、ロゴロジー形而上学を人目につかないようにはしているが神学の一種として扱うだろう。