ケネス・バーク『動機の修辞学』 43

.. 中世期の修辞学

 

 これまで述べてきたことが修辞学に関する包括的な研究になっていると言うつもりはない。我々はこの特殊な「修辞哲学」を打ち立てるのに「役立てる」ことのできる作家たちのある側面だけを取り上げようとしたのであり、それによってその哲学があまりに「特異な」ものとならないことを願った。その基本的な原則、特殊には文学批評における、一般的には人間関係における意味を考察しようとした。しかし、概論を書こうとしているのではないにせよ、修辞学がとりうる主要な方向性については触れておくべきだろう。そして、それらがみな、諸原則を生みだす説得そして/あるいは同一化との関係において位置づけられることを示すべきだろう。しかしながら、我々にはアウグスティヌスとピコ・デラ・ミランドラの間の世紀が抜け落ちているので、欠けた部分を補うために、我々が必要に迫られて無視した長い期間を埋めるリチャード・マッケオンによる二つの権威のある論文を参照することとしよう。

 

 「中世の修辞学」(『スペキュラム』1942年1月)というエッセイで、マッケオンは中世を二つの時期に分け、その初期で修辞学は「公的な事柄をうまく話すための学」として扱われ、第二期には次の三つの主要な要素があるとした。(1)論理学の一分野としての修辞学。(2)神学で認定された真理を言明する技芸。(3)言葉の技芸。彼はまた、これらの要素が、一見中世的伝統が断絶したかに見られるルネサンスにおいても発達し続けたことを示している。そして、明らかに語の研究として限定を受けていた探求が、語の指示する非言語的な事物を考慮することに赴き、その道筋が科学と科学的方法の発達に寄与したことを示す。(「象徴的論理学は、過去と関わりがないようでありながら、この伝統を繰り返している。」)

 

 中世全体の修辞学の範囲を示すために、マッケオンは次のように要約する。

 

修辞学は諸技芸や諸科学のうちでまれに見るはっきりとした傾向をもっており、それは、知的学科として一般的であった修辞学の歴史であるからこそ可能だった。その応用において、修辞学の技芸は、四世紀から十四世紀に至るまで、うまく話し書く、書簡や請願書をつくる、説教や祈り、法的記録や摘要、散文と詩などの方法ばかりでなく、法や聖書を解釈する規範であり、発見と証明のための弁証法的手続きであり、哲学と神学で普遍的に使用されるスコラ的方法を確立するものであり、最終的には哲学を神学から分ける科学的探求を形成するものでもあった。応用において、修辞学の技芸は、それ以後長らく他の諸科学のものとなった教義(例えば情念の如きもので、単に細部において異なるに過ぎないデカルトの「科学的な」考察が出るまでは、修辞学の教科書で扱われるものだった)のもとでもあれば、多様な主題に適用される特殊な技巧の源でもあった(例えば、「決まり文句」は議論を始めるための技術であることもあれば、言述を敷衍するための手段でもあり、事実を発見したり、表現の言語的条件、説得において心理学的に必要なもの、付随する事実の蓋然性などの考察によって完全に決定することのできる「定義」や「理法」を導く方法でもあった)。理論の応用において、修辞学の技芸は、文法、論理学、弁証法(このそれぞれもまた同一視されたり区別されたりするのだが)ばかりでなく、詭弁法や科学、「市民哲学」、心理学、法学、文学、最終的には哲学そのものと同一視されることもあれば、区別されることもあった。だが、修辞学を単一の主題に限定してしまうと——スタイル、あるいは文学、あるいは話法——中世を通じて歴史をもたないことになる。この時期のものとされる修辞学に関連した諸分野の多くの発明は、その歴史が、進歩が顕著な領域だけに限定されないと考えた方が有益であることを示していよう。

 

 

 マッケオンは修辞学のもう一つの側面、半ば非象徴的な領域、オヴィディウスやマキャベリが用いた「行政的」技巧についても言及している。

 

修辞学と医学との交差はエウナピウスの『哲学者列伝』に明らかである。特に、キプロスのゼノン、マグナス、クリバシウス、イオニカスの部分を参照。・・・マグナスは、他の医者では治癒しない患者たちを納得させ、会話や質問の力も借りて健康を回復させることで修辞学と医学とを結びつけた。イオニカスは哲学と医学の達人であるとともに、修辞学と詩学に通じていた。P・H・ド・レイシー、E・A・ド・レイシー、フィロデムスによる『推論の方法について』を参照。・・・そこでは、医学と修辞学との関係が、「経験的」あるいは「推量的な」方法のもと議論されている。

 

 

 この文章を我々の目的に応用すると、医者の仕事場にある医学的装置でさえ、純粋に診断に使用されるとは判断されず、医学の<修辞学>でも働いている。どんな装置であろうと、形象として訴えかける力がある。様々な器械、計器、測定器でしつこいくらいに叩かれ、調べられ、音を聞かれる芝居じみた行為に患者として参加する満足を覚えていた者が、そうした装置や劇的な行為なしに治療されても欺されたと考えることになろう。(マッケオンが「修辞学と医学との交差」と呼んだものは、我々の言葉で言うと、「修辞学の範囲を医学にまで押し広げること」となろう。それに関連する<一般的>用語は「患者扱い」であり、アリストテレスなら<エートス>による訴えかけに分類しただろう。)

 

 ある友人が言った。

 

 「私が子供のとき、仲間の一人が『心臓の障害を発見する』装置を見せてくれた。両端にバルブがついたガラスの管で、赤い液体が入っていた。彼の説明によると、もし心臓に障害のある胸にバルブを押しつけると、管の液体が沸騰し始めるということだった。最初に彼は自分で試してみた。液体は静かなままだ。ところが、私の胸に押し当てると、液体がすぐさま沸騰し始めたので、私は怖くなった。<迫真性>についていえば、眼に見え、触れる『医学装置』は、『状況を眼前にもたらし』、イメージによって想像力に修辞的に訴えかけることをまさに行なったわけだった。私は文字通り自分の心臓障害を<見た>——そして、この日以来『心臓を意識する』ようになった。

 

 修辞の力をより強めることにも、少年はその装置を使った。彼がもっているとなんともなかったが、私がもつと液体は再び激しく泡立ち始めた。彼はバルブを私の足に押しつけさえした——心臓の病は深刻であり、液体の沸騰は足のようなかけ離れた場所でさえ起こるのだった。

 

 それから、ありがたいことに、私が怖がっているのを充分楽しんでから、彼は説明をしてくれた。この装置は、最も修辞の力が必要とされる仕事、いかさま治療で使われるものだった。ガラス管の液体は僅かな温度の変化にも鋭く反応し、バルブをしっかりと握れば手の温かさで沸騰するようになっていた。液体を反応させないようにしたいのなら、二本の指で管を軽くつまめばいい。怖がっていた私は、彼が自分に使うときは私のときと様子が異なることに気がつかなかったのである——そして、私に手渡すとき、彼は一方のバルブをもって差しだしたから、私は自然に反対側のバルブを手に取り、沸騰させることになったのだった。

 

 インチキ療法士はこれを使って無知な者に心臓の障害があると信じさせた。しかし、治癒も確約したのだった。そして、一連の治療を終え、取れるだけお金を取ると、健康になったといって喜ばせ、伝道の熱意に燃えたインチキ療法士は新たな得意先へ赴くのだ。」

 

 我々はこの物語を、純粋に技術的、機能的な価値を超えたところにある医療装置の修辞的働きを示すために引用した。こうした装置は様々なやり方で診断を下し、たとえ健康の回復はできないにしろ、心安らかに死ぬ手伝いができると言って慰める。

 

 オヴィディウス、マキャベリ、医療の修辞的要素を一緒に考えると、これら部分的には言語的で、部分的には非言語的な修辞技巧において、非言語的要素もまた、その象徴的な性格によって説得に加わっているのだと言える。紙は燃えあがるために火の<意味を知っている>必要はない。しかし、火の「観念」には説得的要素がある。こうした経路から、いかにその外見において純粋に「科学的」であろうと、あらゆる「意味」には修辞的な動機が潜むようになる。説得が存在するところにはどこでも修辞が存在する。そして、「意味」が存在するところにはどこでも「説得」が存在する。食べられ消化される食物は修辞的ではない。しかし、食物の意味には多大な修辞的要素があり、修辞的技巧として使用されると、宗教の観念と同じように充分に説得的な意味合いをもつ。

 

 ところで、我々はリチャード・マッケオンの中世の修辞学に関するエッセイに言及していたのだった。彼はこの問題を「修辞学のルネサンスである十二世紀の詩と哲学」(『現代文献学』1946年5月)で続けて扱っている。特に注目すべきは、この時代の詩人や批評家は、現代のように、教訓と詩とを対立すると考えていなかったことである。彼らのより堂々とした見解によれば、

 

 道徳的問題は解決への道筋を覆い隠すことで詩的になる。そして、詩はその教えが曖昧なら教訓的であり、特定の哲学との関わりをもたないなら形而上学的であり、宗教が比喩をつくりあげる際の感情に制限を加えるなら宗教的になりうる。

 

 

 しかしながら、こうした教訓に対する自由な見方は、その語が示すよりも現代的な批評基準に近い場合がある。というのも、詩から「教訓的なもの」を追放しようとしている今日の人間も、ここに描かれたような十二世紀の立場に完全に従うことができるからである。同じように、現代芸術における論理の重要性を認めるには、論理的規範の<直接的な侵犯>による効果が、論理に従う結果得られる効果と同様、完全に論理に属していることを見るだけでいい。

 

 同じ自由さは、芸術の不明瞭さに対する十二世紀の姿勢にも実りゆたかに行き渡っているように思える。諸動機の<修辞的>隠蔽である「称讃的覆い」について、ベンサムが述べた<外皮>と<外皮につつまれるもの>を思い返してみると、それをマッケオンのエッセイに散見される不明瞭の<詩学>に比較することができる。ベルナールによると、ヴェルギリウスは「ある隠蔽のもとに[sub integumento]、一時的に人間の身体を借りた人間精神がなし、被ることを描いた。・・・その上、隠蔽とは寓話的な物語で真実の理解を包む表現の一種であり、それゆえ包み込み[involucrum]とも呼ばれる。」リールのアランは『De Planctu Naturae』で、「クピドの本性については、様々な作家たちが謎という覆いに包んでいる(sub integumentali involucro aenigmatum)」と書いている。ラバルダンのヒルデバルトは知恵について、「<我々はそれをエフラタで聞く>、即ち、鏡や望楼において、即ち、イメージに隠されたもののうちに、即ち、新約に明示されたところと旧約の不明瞭なところに」と語る。ベルナールは、「あらゆるものを面と向かって見ようとし、詩にはおなじみの鏡や謎のなかに真実を見る工夫を、その哲学においてまったく利用しない」アベラールを非難する。

 

 ここで我々は、鏡に映るイメージでもさえが「明確」ではなく、ある種の「隠蔽」(<それはまたある種の表現の仕方でもある>)だと考えられた時代に対面している。神の神秘性とともに、歴史や自然を神の意志のぼんやりとしたあらわれと主張する神学的教えは、批評家をして喜んで芸術の謎を受け入れさせただろう。あるいはむしろ、芸術家の象徴の不明瞭さを受け入れることは、あらゆるイメージは不明瞭だというパウロの見解に<一致していた>と言ったほうがいいかもしれない。この見解には我々も同意できよう。しかしながら、修辞的説得と同一化の観点から見ると、マルクスの「イデオロギー」、カーライルの「衣装」、エンプソンの「牧歌」についての説と歩を同じくし、謎にある<社会的な>意味合いに重点を置くこととなろう。