ケネス・バーク『動機の修辞学』 22


  修辞の伝統的原理

 

.. 説得

 

 「説得を目的とした発言」(dicere ad persuadendum accommodate)。これがキケロの対話篇『弁論家について』で修辞(またその同義語である「雄弁」)に与えられた基本的定義である。キケロの代弁者であるクラッススは、当然のように、修辞学の学生が最初に教えられることとしてそれをあげている。彼より三百年前、アリストテレスの『弁論術』は同じように、修辞の本質および目的として「説得」をあげ、「場合に応じて利用できる説得の手段を発見する能力」と定義している。同様に、失われた論考のなかで、アリストテレスの偉大な競争相手だったイソクラテスは修辞を「説得の技能」(peithous demiourgos)と呼んでいる。つまり、これほど一般化されると、ド・クインシーが言うように「説得」自体が異なったふうに解釈できるにしても、敵対者同士でも同意することができるのである。

 

 キケロのほぼ一世紀後、クウィンティリアヌスは『弁論術教程』で、強調点を変え、修辞を「うまく話すための学」(bene dicendi scientia)と定義する。※彼の体系は明らかに特殊な説得に向けられている。ローマ紳士の教育である。かくして、二ダースに及ぶ定義をあげている章で(その三分の二は「説得」を修辞の本質としている)、最終的には説得への言及を欠いたものを定義として選ぶのだが、その<働き>はそのままに保たれている。彼は完璧な雄弁家を善人と等しいものと見なし、善人は雄弁と道徳的態度において例外的であるべきだと言っている。彼が言うには、修辞は「有用」であり「美徳」である。それ故、彼の「うまく話す」という考えには、道徳的奨励が含まれており、なんらかの目的をもった実用的技術だけがあるではない。

 

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 ここで、最初の偉大なキリスト教修辞家、聖アウグスティヌスの『キリスト教の教え』(五世紀初めに書かれた)の第四巻がつけ加えられるが、先にあげた750年間に突出する四つの偉大な頂に較べても、説得、行動を引き出すもの、アウグスティヌスの言葉で言えばad agendum、という修辞の主要原則に関する豊富な材料が含まれており、この本の至る所で、人間は次のような場合に説得されると言われている。

 

彼はあなたが約束することを好む、差し迫った感じで話すと恐れる、非難すると憎む、命令すると受け入れる、後悔を促せば後悔する、喜ぶようなことを言えば喜び、不幸を眼前に彷彿させるように描けば同情し、会わないよう忠告した人間には会わないようになる・・・その他どのようにでも高度な雄弁は聞き手の心に働きかけることができ、単になにをすべきか知らせるだけではなく、知り得たすべきことをするようにしむける。

 

 

 だが、行動を引き出すだけの説得よりも、ある「姿勢への」説得といったほうがより正確な場合も間々ある。説得は選択や意志を含む。それはある人間に向けられるが、彼が<自由>である限りにおいてである。これは独裁制独裁制に近いことが行われている昨今では覚えておいていいことである。人間が潜在的に自由である限りにおいて、雄弁家は彼らを説得する道を探さなければならない。彼らがなにかを<しなければならない>限り、修辞は不必要で、それはごく当然のこととしてなされるが、しばしば自然な必然性がなく、「自由市場」に時にあるように、ある種のpeithananke(あるいは「説得を装った強制」)、人為的な状況によって課せられた必然の場合もある。

 

 <行動>の選択が限られている場合、修辞はむしろ<姿勢>を形づくる道を探る(死を宣告された犯罪者は、聖職者の修辞によって悔恨と忍従の態度をとらされる)。かくして、キケロアウグスティヌスでは、修辞の究極的な働きを名指す語は、「動かす」(movere)から「曲げる」(flectere)へと転換した。この転換は、行為と態度の区別に対応している(態度とは発端の行為であり、好みや性向である)。かくして、<姿勢>への説得という考えは、修辞学を純粋に<詩的な>構造に当てはめることを許すだろう。詩的技巧の研究は、そうした技巧が、あからさまで実用的な賛意ではなくとも、読者を誘導したり、心の状態を伝える力があると考えられるならば、修辞学の下に分類できる。

 

 まとめると、伝統的に、修辞学の範囲は「騙しの技芸」(ギリシャソフィストたちの幾人かによって体系的に「完成された」)から、クウィンティリアヌスの言う正しい行為と正しい話を一致させる力、技芸、学としての修辞学までの広がりがある。クウィンティリアヌスと同じく、イソクラテスは『アンチドーシス』Antidosisで、アテナイ人に毎年説得の女神(ペイトー)に生け贄を捧げるよう注意しており、彼にとっても話すことはもっともよいことの源泉なのである。よく話そうとする欲望は、多大な道徳的向上につながる、と彼は言っている。「真実で、公正な、よく整えられた言説は、善き信仰深い魂の外的なイメージ(eidolon)である。」

 

 あるいは、「修辞」、「能弁」、「雄弁」はみな「話す」という意味の同じ語源からきているので、修辞とは<純然たる言葉>だというアリストテレス流の強調をとることもできる。彼の図式によれば、この点において、修辞は弁証法の「対応物」である(ここでの「弁証法」は現代の「自然弁証法」とは別のものだが)。修辞家を非常に狭い範囲の専門家だと見る理論家もいる。他方、人はなにごとについても「雄弁」であることができるのだから、修辞学の範囲を広げて、クウィンティリアヌスのようにそれを全教育課程の中心に置くこともできる。彼はキケロが強調したことを拡大しているだけで、キケロは理想的な雄弁家は理想的な市民であり、普遍的な才能、思いやり、経験をもつ人間だとした。そして、アリストテレスは知識を厳密に、できる限り細分化しようとしたが、『弁論術』には、心理学、倫理学政治学詩学、論理学、歴史という異なった分野にわたる事柄が含まれている。実際、彼によれば、修辞的な発言に特徴的なのは、科学の特殊性を離れた「平凡さ」が含まれていることにある。修辞家が特殊な主題を扱うのに比例して、彼の発言は修辞学を離れて科学的になる。(例えば、アリストテレス的な意味での修辞の「平凡さ」の典型は、チャーチルのスローガン「少なくなったらもう遅い」であり、どんな特殊科学的な量や時間に当てはまるとも言えない。)

 

 「説得」そのものについて言えば、そこに純粋に論理的な証明が含まれていると想像することもできる。あるいは、理性への訴えかけと感情、感傷、無知、先入観などへの訴えかけを区別し、「説得」をこのより秩序だっていない種類の「証明」にとっておく者もいる。(ここで再び我々は「弁証法」という語に侵入する。アウグスティヌスストア派の用例にならって、弁証法を修辞の論理的基礎として扱っているように思える。弁証法は、かくして、修辞的説得の規範となる基本的な場面を扱うことになろう。)

 

 ギリシャ語の<ペイトーpeitho>はラテン語の「信仰」と語源を同じくする。従って、アリストテレスの修辞的「証明」はpistisという語に関係している。彼の語彙では、科学的証明(apodeixis)と比較して、<より劣った>種類の証明のことである(Institutio Oratoria第四巻十章を見よ)。しかし、皮肉なことに、この言葉は、ギリシャキリスト教文献のなかで、「理性」と対比され、知識の<最上位>にある「信仰」や「信念」を指すようになる。<ペイトー>の能動態は「説得する」を意味するが、中間態および受動態では「従う」を意味する。

 

 しかし、それに対応するラテン語suadereは「人当たりの良さ」、「和らげる」、「甘い」などと同じ語源からきている。それに従い、「説得」の意味範囲を「人に取り入る」、「喜ばせる」にまで狭めようとしたがる者もいる。かくして、アウグスティヌスはしばしばこの語をこうした非常に限定された意味で用い、修辞的発言の最終的な目的を頭に置いているときには「動かす」や「曲げる」(movere,flectere)といった語を好んだ。(シドニーは、会話の目的を「心に思いついたことを甘く、正確に話す」と言ったが、英語の「甘い」とキケロが強調した雄弁の<甘美suavitas>との関係を理解すると、「甘く話す」の背後にある「説得」の特徴が正しく認識される。)

 

 しかしながら、修辞の人に取り入るという能力は、好意を得たり、注意を引いたり、より差し迫った目的のために注意をそらしたりするための二次的な道具として考えられることのほうが多い。説得は敵の存在や脅威を前提することがしばしばなので、「好戦的」、競争的なところがある。かくして、アリストテレスは修辞学を「正反対の証明」がなされる場と見なし、男らしく自己防衛するための手引きを示すのである。彼は、押さえ込みとその返し、一撃と防ぎ方、説得の手段に諫止の手段、証明と反証明、称賛とそれに釣り合った非難を記述している。<一般的に言えば>、より真実に近く、よりよい目的が有利ではあるが、どんな目的も熟練なしには適切に詐術から身を守れないことが認められている。そこで、彼はそうした詐術を、アウグスティヌスキリスト教の説得を分析した際に特徴的な固定した立場に立つことなく、純粋に技術的な観点から研究するのである。アリストテレスは、いかに他人を効果的に「はい」と言わせるかを教えているが、同時に、反対の、いかに力強く他人を「いいえ」と言わせるかについても教えている。

 

 この「好戦的な」面は、元老院議員や裁判の経験から多くの論考を書いているキケロでは当然ながら強調されている。教育的な側面の強いクウィンティリアヌスではより弱いが、彼の雄弁についての発言には頻繁に軍事的、剣闘士的イメージが使われている。(それで思い出されるが、キケロの対話編『弁論家について』は<剣闘のシーズンの間ローマを離れ>郊外にいる著名な公的人物の間で会話が交わされる。)

 

 他の作品での熱のこもった論争がどれほどであろうが、『キリスト教の教え』でのアウグスティヌスは、敵を徹底的に叩きつぶすよりは、聴衆を<おだてあげ>ようとしている。アウグスティヌスの時代にあった異教修辞家たちへの悪評にもかかわらず、彼はその形式に含まれる説得力を認めていた。そして、修辞はその本性からして異教的だとするキリスト教徒もいたが、アウグスティヌスは(彼自身改宗前は修辞学の訓練を受けていた)どんなものでも神の礼拝のための装飾となり、新たな教義の栄光と力のためになると考えていた。

 

 「正反対を証明する」手段である修辞学は、再び我々を修辞学と弁証法の関係へと導く。恐らく、おおざっぱな一歩として、次のように考えられるだろう。幾人かの<修辞家>を集め、質問と答えをやりとりしてそれぞれの考えを成熟させるようにすると、プラトンの対話篇の<弁証法>になる。理想的に言うと、対話は、語り手が互いに競い合うことで個人的な立場を越えた共通の目的、より高次な真理に到達しようとする。ここには、「より高次な総合」のなかで「反対物が一致する」という弁証法的過程の範例がある。

 

 しかし、プラトンの場合、弁証法は<一般的意見>から出発する。ソクラテスの「産婆術」(maieutic)とは、一般的意見から始め、それを体系的な批判にさらすことで真理を発見しようとする。また、この過程は純粋に言語的なものである。それ故、アリストテレスの見解では、それは、固有の言語外的主題をもっている科学ではなく技芸である。ソクラテスの方法は、経験による観察や実験室での実験で得た知識を積み重ねることよりも、正義、真理、美などの「観念」を弁証法的に探求する言語的な仕事により適している。こうした弁証法は、語のもともとの意味での「イデオロギー」、諸観念とその相互関係の研究に関わっている。しかし、特に注目すべきなのは、「真理」の探求が「一般的意見」から始まり、ある意味、一般的意見に<基づいている>ということである。この点は記憶にとどめておく価値がある、というのも、弁証法の言語的「対応物」である修辞学も、その水準を越えようという体系的な試みがないなら、同様に「一般的意見」を扱うものと言えるからである。

 

 説得に含まれる競争的、公的要素は、特に修辞が一般的意見の水準で働くことを強いる。かくして、先入見への訴えかけの方が理性への訴えかけより効果的なとき、修辞家の目的が自分の意見を広めることにあるなら、自らの好みは度外視してもそうした手段を用いる必要があるかもしれない。キケロは、議論には議論で、感情的訴えには正反対の感情をかき立てることで答えるべきだと言った(敵対者が善意を植えつけたところでは憎しみをかき立て、思いやりには羨望をかき立てて対抗する)。アリストテレスは、敵対者が冗談を言うときにはまじめに、まじめなことを言うときには冗談めかして対抗するべきだというゴルギアスの考えを称賛をもって言及している。こうした条件の説得では、真理はよく言っても二次的なものである。それ故、修辞学はまさしく一般的意見に基づいていると言える。しかし、「真理」と修辞学が扱う一般的意見との関係はしばしば誤解されていると思われる。古典的テキストは我々が気にかけている点を明らかにしてくれないように思われる、即ち。

 

 修辞学が扱い、行動を導き出すために用いる一般的意見は<真理と対照される>一般的意見ではない。二つの語(一般的意見と真理)を弁証法的な組としてしまうと、ついそれらを正反対のものと見てしまう。実際には、説得のときの「一般的意見」の多くは、厳密に科学的な、真−偽、諾−否といった意味での真理の検証の圏外にある。かくして、ある種の行動を称賛する強固な一般的意見をもった聴衆がいる場合、演説者が、聞き手をその行動に結びつけるしるしを用いて命令を下すことができる。こうした倫理的な意味での「一般的意見」は、明らかに、厳密に科学的な「真理」とははすかいの位置にある。もちろん、語り手は、徳を示すしるしを用い、ある人間を行為に導くことにおいて正しかったり間違ったりしうる。ある人物が、そんなことはしていないのに、しているかのようも言える——そして、もし聴衆を信じさせることに成功すれば、真理とは<対照的な>単なる一般的意見で不正取引したと言えるだろう。しかし、我々はここでは、こうした単なる詐術よりも更に踏み込んだ動機に関わっている。説得の戦術すべてが基づく倫理的仮定の根底にあるものを論じているのである。重要な要素は一般的意見である(「場面」に関わる真理の理法というよりは、<行動>の道徳的体制における一般的意見である)。修辞家はこの原則においてのみ働くべきである。聴衆の一般的意見で、ある種の行動が称賛されるなら、語り手は自分の目的とこの種の行動とを一致させるような観念やイメージを用いることによって、聴衆を説得することができる。

*1:※彼は「学」という語をおおざっぱに使っている。この定義は第二巻十五章にある。第三巻の冒頭で、彼は、修辞を「技芸」として示したと言っている。