ケネス・バーク『動機の修辞学』 14

. 同一化と「自律」

 

 「自律的な」活動について言えば、修辞的同一化の原則は次のように言うことができる。ある活動が活動主体に本来備わっている自律の原則に還元可能だという事実は、異なった動機づけとの同一化から自由だということを意味しない。そうした別の体制が外部であるのは、限定された活動の観点から考えたときのみである。人間活動一般の観点から考えると、道徳的行動の領域の外にあるわけではない。人間という行為者が、人間という行為者<として>あるなら、どれ程その力が強くとも、形象として強く働きかけ、性格に影響を与えることがあっても、限定された活動の原則によってのみ動機づけられるようなことはない。限定された活動はより大きな行動に加わる。「同一化」はこのより広い文脈における自律的な行動の場を示す言葉であり、その場に行為者が関心をもたないこともあり得る。羊飼いは、羊飼い<として>、羊のためになるよう、羊を不快や害から守るように行動する。しかし、市場に出すために羊を育てるという計画と「同一化」することもできる。

 

 もちろん、自律的な活動の原則は、同一化とは関係なしに考えることもできる。実際、教室で隣り合わせに座り、特殊な原理を教わっている二人の学生は、全体的な文脈においては、違った風にその問題と「同一化する」と予想されうる。特殊との最も重要な同一化の多くは、ある程度の年をとり、特殊さがその人間の生き方の独自性と一つに縒り合わさってからでなくては確立されないだろう。特殊な活動が異なった意味をもつこともあって、家庭や快適さを身の回りに集めるための手段になることもあれば、未婚で、子供が無く、愛のない者は、満足そのものではなく、満足が欠けていることの代わりを特殊性に見いだすことがあるかもしれない。

 

 他に類のない事例では、同一化との関わりが象徴的なものの「様々な同一」に向かうこともある。つまり、ある個別な完成された動機の構造に傾注しているとき、我々は純粋に象徴的なもののなかにいる。しかし、特殊な活動によって社会的、経済的階級へと参加させる同一化を考えるときには、我々は明らかに修辞学の領域にいる。この場面に「属すること」は修辞的である。皮肉なことに、今日の大学での文学や美術の教育の多くは、自らの活動の純粋な自律性を強調することで、特権階級の旗の下に学生を登録し、そのあり方を教え、出世を約束する社会的しるしを与え、間接的に特権階級に同一化している。(我々はここでは明らかにヴェブレンの線に沿って考えている。)

 

 自律的な原則の重要性を強調することにはいい点もある。特に、文学の教育について言えば、「自律性」を強調することは、吟味しているテキストではすべてが重要なのだという積極性を反映する。辛抱強いテキスト分析の流行は(固有の行きすぎがありはするが)、過剰で極端な歴史主義(十九世紀の残存物である)に対する反動として役に立ち、この歴史主義では、作品はその背景に従属し、学生の第一級のテキストに対する評価は五流の文学史家による副読本のなかに見失われてしまう。また、この領域の自律性を強調することは、方法論的にいっても価値がある。ある種の原則について明瞭な洞察を与えてくれることでも称讃されるにふさわしい。こうした考え方は、擬似科学的な思考がその無批判な「事実」の崇拝において「無原則」になっているいま特に必要である。しかし、内在するものにまず関心を向けることには、こうしたもっともな理由とともに、秘かな誘因があると想像できる。というのも、近年の進歩的、急進的批評の多くは、芸術の社会的意味に関心を向けているので、芸術の自律性の主張は、対照的に、間接的な方法で政治的保守主義と同一化することをしばしば可能にするからである。同一化の修辞原則に従えば、「非政治的な」美学が熱心に主張されているのを見つけたら、政治を探せ、ということになる。

 

 しかし、自律性の原則は歴史によって転換するもので、そこでは同一化の性質も大きく変化する。それに関連することとして、『プラトン思想の発生』のデイヴィッド・ウィンスパーは、プラトン哲学がその始まりにおいて貴族主義的、保守主義的政治傾向に同一化したという見解を示している。他方、ソフィストは新興の商人階級とより密接に同盟しており、彼らの立場は、その事業が奴隷の受け入れを基礎として成り立っている事実によって根本的に弱められているにもかかわらず、マルクス主義的観点からすると比較的「進歩的」なのである。だが、歴史の他の時期においては、プラトン的理想国家が進歩的傾向と全般的に同一化することもあり得る。

 

 第二次世界大戦の間、以前にはマルクス主義流の芸術でのプロパガンダに不満を漏らしていた上質の作家たちの多くが、自らの美学と反ファシスト政策とを同一化するような本を書いた。少なくとも、こうした文学はヒットラーのドイツとその協力者を野蛮で神経症的だとしているが、前年には同じ言葉が「一般人」に向けられていたのである。(グレンウェイ・ウェスコットの『アテネのアパートメント』はその例である。)代表的な書評家自身が、民衆を反ファシスト的姿勢と同一視し、反ファシスト的書物の販売を助ける修辞的行為を取っているので、<すべての>修辞の信用を傷つけることで<マルクス主義の>修辞の信用を傷つけるというあまりに大雑把な試みは廃された(修辞的行為の方は、後に、反ソヴィエト的姿勢の形成や、反ソヴィエト本の販売に一役かったが)。こうした展開を見てきたせいか、批評家の多くは、芸術の「自律的な」領域と政治的、経済的動機とを陰に陽に結びつける同一化を探ることにあまりに気を遣うようになった。特殊化された行動の「純粋性」を疑問視することに真っ向から抵抗しているのは、現在では別の領域である。つまり、科学のリベラルな擁護論においてである。