ブラッドリー『仮象と実在』 134

...[どちらにしても、明示することはできないが、どちらも同じ議論に依存している。]

 

 同様の議論によって我々は自分の過去と未来にたどり着く。ここでも、他の自己の存在に反論する独我論は、気づかぬうちに自殺を試みている。というのも、《私の》過去の自己も、推論によってのみ、それ自体誤りを免れ得ない過程によってのみ到達されるものだからである。

 

 我々は各人、過去の自己が自分のものだと考えるのに慣れっこになっているから、それがどれだけ異質なものとなりうるかは反省してみる価値がある。第一に、私の過去は、私の現在が他人の現在と共存し得ないのと同じくらい私の現在と共存し得ない。その二つの性格が他の点では同一であるとしても、時間の相違はそれらがまったく同一であることを許さない。そして、性格の一致も少なくとも常に見いだされるものではない。そして、私の過去は無関係であるために現在と異なっているばかりでなく、私はそれを敵意や憎しみをもってさえ見るかもしれない。ただ、強制的についてくる先取特権、連続性と推論による強化によって私のものとなりうる。そして、この推論は、抽象的ではないが、明示はできない。

 

 私の昨日の過去は、現在からの復元によって構成される。観念連合x(a-b)をもつ現在をX(B-C)としよう。X(a-B-C)を形成するために観念連合を再生し、それを現在と総合するのが、我々が記憶と呼ぶものである。この過程を正当化するのはxとXとの同一性である。しかしこれは、私の現在の自己を単に性質づけるものではなく、実際にはある距離を置いた別の自己を据えることである。以前、我々の身体の同一性が我々に別の人間の魂をもたらしたように、私は同一性を主張しながら差異へと乗り上げてしまう。ここでもまた、同一性が不完全なのは明らかである。観念連合はいまXを性質づけるすべてを有してはいない。xはXと異なり、bはBと異なる。そして、この欠陥のある同一性から別の具体的な事実へと進む過程は、ある程度、干渉してくる未知の諸条件によって損なわれる。それゆえ、私はこのようにつくりあげた昨日の自己が過去において現実的な存在を有していると《証明する》ことはできない。私の観念的構成がそこから始まらざるを得ない具体的な諸条件は、その性格を変えるかもしれない。事実、もし観念がそうした性格と結びつくなら、もし私がその未知な事実を知ったとしても、もはやそれを私の自己と呼ぶことはなかろう。かくして、私の過去の自己は、確かに明示されない。他人の自己と同じように、実際的に確かだと言うしかない。そして、どちらの場合でも、結論、そこに至る道筋は原則的に同じである。他人の自己も私の自己も知的に構成されたものであり、どちらも特殊な事実であることを期待できる程度には確かである。しかし、もしそれを明示することを言い張る者がいるなら、どちらも明示はされない。もしこうした要求があくまで主張されるなら、それは断固として他の誰の自己でもないというなんとも言いようのない感情に留まらねばならない。他方において、もし厳密には証明されない結果を受け容れようとするなら、《どちらの》結果をも受け容れねばならない。というのも、他人の自己に至る過程は、自分の自己を獲得する構成に較べて、差があったとしても、目立つほど確かさが異なるものではないからである。どちらを選択するにしても、独我論という結論は崩壊する。

 

 もし記憶やその他の能力に訴えかけ、私の自己の他とは異なる実在を守るためにそれに頼ることになるのだとしたら、私はその求めを丁重にお断りせねばならない。というのも、私はそうした都合のいい不思議など存在しないこと、誰もそれらを受け容れるに足る十分な言い訳などもっていないことを確信しているからである。記憶が現在を基盤にした一つの構成なのは明らかである。それはまったく推論に基づいたものであり、誤りを免れ得ないのは確かである。過去の私的な存在に対して多大な誤りがあることはよく知られている。ちなみに、自己の現在という限界にまつわる混乱は、催眠状態の特徴とよく似たものであることを留意しておきたい。暗示された異質な人格とは、私が思うに、我々の自己の二次的な性格に対する強力な証拠である。つまり、どちらもある制作の結果である。別の方法で考えることは明らかに不可能であろう。(1)

 

*1

*1:(1)もちろん、他人の身体の干渉は、私自身の自己と他人の自己とを混同することを妨げる。第一に、他人の身体は私の快苦に直接的に結びついていない。第二に、その状態はしばしば、事実上私のありようと両立不可能である。