ブラッドリー『仮象と実在』 155

[それは経験と同一ではない。それを個人の観点から示す。]

 

 問題を二つの側面から、魂が何であり、何でないかを知ることが助けとなるかもしれない。第一に、個人の経験から、次に同じことを外側から、複数の魂の側から見ることにしよう。

 

 それでは内面からはじめ、ある瞬間における私の経験全体を取り上げ、感情を伴い「私のもの」であるそれを単一の「いまここにあるもの」ととるとき――ここに私の真の魂が見いだされたと思っていいのだろうか。明らかにそうではなく、(それ以上先には行かない)そうした存在はあまりにつかの間のものだからである。私の魂は(と私は答えるべきだろう)単にある一瞬の何かではなく、ある時間持続し、その自己同一性を守らねばならないものであると。同一性に対して意識的だというわけではなく、そうした主張は反対方向の極端に我々を運ぶことになる。そして、求められる連続性と自己同一性がどれほどの量なのかについては私はここでは何も言わない。必要である限りにおいて、のちにこうした問題に触れることもあろうが、現在のところは一般的な帰結に限定することにしよう。魂の存在はある一瞬の現前以上に持続しなければならない。それゆえ、直接的に与えられ、瞬間を超えない経験は魂には足りない。

 

 しかし、いまだ「経験」にとどまり続け、それを別の意味にとったとしても、なおやっかいである。経験は以前は狭すぎたが、今回はあまりに広すぎるからである。私の経験の全内容は――私自身でそれを考えようが別の人間が考えようが違いはない――私の魂が宇宙全体ほど大きくない限り、私の魂たり得ない。というのも、他の身体に魂、それに神自身でさえ(私がそれらを知る限り)、すべて私の精神の状態であり、その意味において私という特殊な存在の部分をなしているからである。そして我々は以前見たように(第二十一章)、心的内容と心的存在の多様な側面の間に区別があることに気づかされた。端的に言って、我々の経験は本質的に、またそのほとんどが観念的である。感情の統一からはじまり、魂と魂以外のものの相違が生みだされ、世界とそれらまた私とが分離するのは観念的な過程である(1)。それらすべてのものが得られるのは、つまりは、存在と性格の両側面を分けることからきている。私の世界のある部分ということで意味されているものは、もっぱら単なる経験の事実なのではない。もしそこに存在しているとおりにそれを受け取っても、それは常になにかであり、そのなにかは問題となっている対象では決してあり得ない。(お望みなら)私の馬あるいは私の身体という例を挙げてみよう。どちらも、少なくとも私にとっては「経験」以外の何物でもないことは間違いない。というのも、私が「経験」しないものは、私にとって何ものでもあるはずがないからである。そして、与えられた経験という問題に戻ってみれば、そこにも私の魂の状態以外のどこにもそれがないことがわかろう。私がそれらを知覚し、あるいは考えるとき、その限りにおいて、私の心的状態の外部に発見できるような「事実」は存在しない。しかし、そうした「事実」は私にとっては自分の、あるいはまた私の身体の「事実」ではない。それらの真の存在とは、私の精神のなかに現前するものではなく、むしろ私の精神にとって現前するものだといえる。その存在は私の心的存在とは別に働き、両立しない内容である。それは「このもの」とは矛盾し、超越する「なに」である。端的に言えば、それが観念的である限りにおいて、真の事実は事実であるといえる。それゆえ、宇宙とその諸対象は私の魂の諸状態だというべきではない。実際、心的な状態が存在しない限りにおいて、それらの対象が存在すると主張した方がいいくらいであろう。というのも、そうした諸対象の経験は、与えられた存在から意味がはがれ、存在がばらばらになったと見なされるときにのみ可能になるからである。結論は次のように述べることができる。私の心的状態が存在しないなら、対象は破壊される。しかしまた、そうした私の状態が消え去ることができないなら、どんな対象も存在しないだろう。事実の、事実から解き放たれて働く内容の二つの側面が互いにとって本質的である。しかし、第二の本質は、二つの側面が統合して第一の本質を形作るのに、「ここにある存在」と「何であるかという内容」を分裂させてしまう。

 

*1

 

 魂は諸状態においてあらわれる諸内容なのではなく、他方では、それなしでは成立しないだろう。というのもそれは、諸内容の現前によって本質的に性質づけられるからである。かくして人間はなにを考えるかによって人間なのではなく、存在するとおりの人間であり、それをもとに考えるのだと言える。内容についての観念的な過程は、必然的に心的な変化の側面をもっている。そうしたつながりは、私自身の個人的なものではなく、たまたま私のなかで生じたときに私の諸状態の継起の原因となるのである。かくして、論理や道徳の原理が私の精神で働いている。この原理は私の魂の一部でないことは確かで、私の諸状態の連続とは大きな相違を形作っている。この点についてはのちに立ち戻ることになろうが、この問題を詳細に議論するのは心理学に属することとなろう。そこでは、心的現象の継起に影響する諸原因を指摘し、分類することになろう(1)。ここではある本質的な相違を強調しておくだけで十分である。観念的な内容な私の存在にあらわれ、影響するが、にもかかわらずそれを私の魂と呼ぶことはできない。

 

 

*2

 

 さて、我々は二つの結論を導き出した。魂は経験に現前するすべてではないことは確かであるし、また、他方において、単なる経験そのものであることもできない。現実的な感情であることもできないし、「ここにある存在」(第十九章)で直接的に統合する性質と存在でもあり得ない。魂がそうしたものでないとすると、次に試みるべきはそれが何であるかをいうことでなければならない。ある瞬間としてとらえられるのではなく、ある「事物」と見なされる同一の個人的な中心の一つである。時間において連続しており、ある種の同一性を維持していると考えられる感情の全体である。それゆえ、魂は与えられた事実ではなく、与えられたものを超越する観念的な構築物である。それは主として観念的な過程の帰結である。しかし、他方において、この過程は非常に低い地点で任意にせき止められる。「与えられた」つかの間の瞬間を取り上げ、感情についての個人的な同一背に基づいて、この瞬間を他の瞬間まで引き延ばし、ある「事物」をつくりだしてみよう。現在にある現実に過去を付けたし、固定した時間秩序に位置づけることで歴史を与えることによって「経験」を観念的につくりだしてみよう。偶然性は、外部内部の因果的関係をもつ出来事の系列を見やることで十分解決されよう。しかしそこまできて立ち止まり、進んでいる過程を呼び止め、魂を得ようとすると急いだあげくに行きすぎてしまうことになる。魂を保っておくには、不整合もそのままにしておかねばならない。というのも、時間における他のあらゆる「事物」と同じく、魂も本質的に観念的だからである。それは与えられた瞬間を超え、「現実的で」経験されうるものを超えた存在にまで広がる。そして、共存と順列の諸関係やつながりによって、そして「諸法則」への従属によって、永遠の真理の世界に生起するのである。しかし、この生の過程に固執することは自殺的なものとなろう。こう進むことで「存在」を結びつけていたものが失われ、その喪失によって個人の自己を手放さざるを得なくなろう。それゆえ、他方において、魂は時間における存在に固執し、内容と現実との破綻することのない統一を追うのである。それゆえ、その諸内容は、時間的な出来事の系列を性質づけることだけが許される。そして、この結果は単なる妥協である。それゆえ魂は計略を練り、物質を特殊な目的に適用しようとする。この適用は原則に基づくものでもなく、それに限定されてもいないので、最終的に魂は人工物に基づいていると判断されねばならない。それは観念的な超越に依存する系列だが、感覚的な事実ととられたがっている。この不整合はその内容の使用において明らかなものとなる。それらは(すでに見たように)宇宙そのものと同じくらい広く、そのために魂を性質づけることはできない。だが、他方において、魂がそれ自体でつくりだす性質をもっているなら、内容は魂を性質づけねばならない。それゆえこうした諸内容は一方においては存在と受け取らねばならず、他方においては、特殊な目的をもつものとして除外される。魂を存在させるには、「経験」は切り刻まねばならない。それが魂ととられる出来事の系列と相違する限りにおいてはそう見られねばならない。それが時間的な系列を形容するものであり――ある種の系列の「いまここにある存在」をつくりあげ、その過去と未来の「いまここにある存在」を変更する助けとなる限りにおいてはそう考えられねばならない。しかし、このことを超えると、経験は単に魂に現前し、そのなかで働くものである。まさしく抽象が保たれている限り、魂は存在する。その生命は特殊な目的がある限り続く。それは諸事実の便宜的ではあるが一面的な表象から成り立っており、有用な現象以上のものではないと主張される。

 

 簡単に言えば、魂の存在は経験されず、与えられないものなので、また、「現在」の超越においてつくりあげられ、そこに成立するものなので、そして、その内容は決して存在と一つにならないことは明らかで、「なにであるか」は「そこにある存在」と常に甚だしい矛盾を示しているので――それらを支持する立場はまったく不整合で維持しがたい。それは自然で必然的なあつらえだが、現象的で幻影的な間に合わせで、価値はあるが真の実在ではない。それ自体を見れば、魂は抽象物で、ばらばらである。ある特殊な目的のために材料をでたらめに使っている。その存在に役立つことより、じっくりそのものを見ることを拒むことばかりに汲々としている。

*1:(1)私は先に言及した『マインド』の主要な論旨をたどっている。

*2:

(1)この点については『マインド』XII.362-3で述べた。