ケネス・バーク『動機の修辞学』 34
.. ヴェヴレンにおける模倣としての「ねたましさ」
ソースタイン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』はその特殊例においてよりも「一般的原理」で考えた方がいい。エンプソンはその繊細さにおいて素晴らしいが、ヴェヴレンは不格好に進む。彼の諸動機についての用語は有効範囲が非常に制限されている。人間の動機を、深いところで説得の諸方法(訴えかけ、コミュニケーション、「正当化」)が働かねばならないものと見なす場合、彼の解説はすべての段階において重要な修正が必要となろう。彼の主たる区別(「ねたましさ」あるいは「金銭上の」動機と「制作本能」)は十分包括的なものでも柔軟なものでもない。例えば、高貴、底辺、上流、下層などという「尊称」や「蔑称」を論じる際、彼は「それらは実質的にはスポーツマンシップ、つまり、精神の捕食的でアニミスティックな習性の表現である」と言う。あるいは、「金銭的体面の規範は、いまのところ浪費、無駄遣い、蛮行の原理に還元されうる」と言う。しかし、我々は、人間関係の広範囲な領域を合理化するに十分な動機が、誤りなくそう還元されうるかどうか疑問を感じるだろう。そうした要素が高い割合で含まれていることにしよう。だが、金銭の象徴的性質には本質的に「捕食的な」ものなど何もない。その本性は、<弁証法的>あるいは<言語的>働きにおいて、物質的な現実を「超越する」、「精神的」実在、象徴的事物、抽象的様態なのである。
ヴェヴレンの心理学は劇的なものでも、劇化されるものでもない。「競争」、「スポーツマン」、「金銭」を扱う際に「ねたましさ」という言葉を彼が選択したことを考えてみよう。(ヴェブレンでは、これら四つの語は互いに等しいのである。)多分、科学的に中立な「称賛の言葉」に関するベンサムの調査と一致するだろうが、次のように書いている。
断る必要もないだろうが、「ねたましさ」という言葉を使うにあたって、この言葉によって特徴づけられるような現象を称賛や軽視、推奨したり嘆いたりする意図はない。相対的な価値や重要性——美的あるいは道徳的な意味における——によって人を評価し等級づける技術的な意味をもち、自分自身あるいは他者によって適切だと考えられる満足の相対的な度合いを認め定義するために用いられる。ねたましさの比較は、価値という観点で人を評価する過程にある。
同様に、「ねたましさ」を「派手な浪費」へのあこがれと同一視し、次のように書く。
「浪費」という言葉の使われ方は、ある点で不運なものである。日常会話で使われるこの言葉は潜在的に非難の意味合いをもっている。ここでこの言葉を使うのは、同じような動機と現象をあらわす適切でよりよい言葉がないためであり、人間の生産物や人間の生を違法に消費するという憎むべき意味合いで受け取られるべきではない。経済学の理論からいえば、問題の消費が他の消費よりもより適切であるとか、適切ではないということはない。この消費が人間の生や人間の福祉に全体として役立つものではないために「浪費」と呼ばれるのであって、それを選ぶ個人的消費者の観点からその努力や消費が無駄であったり過っているために「浪費」と言われるのではない。
「ねたましさ」や「浪費」といった非難の意味合いをもった言葉を鍵となる用語として使い、それが単なる技術的な用語であり、読者はそこに好ましくない意味を読み取ってもらいたくないと主張しているわけで——まあ、修辞的技巧としてはいいものであり、その口当たりの良さを楽しむことはできる(修辞的に言えば、非劇的な名のもとに劇化している)。だが、我々が連想するのはけんか相手を雌犬の子とののしった若者が、続けて「この表現をののしりのために使ったのだと思ってほしくない、厳密な科学的意味で使ったんだ」と言い訳するような図である。
我々が様々な場で不平を述べてきたのは、人類学の動機に関する用語は、人間関係における金銭の役割を軽視するために、現代世界に適用するとしばしば誤った方向に導かれるということである。この異論は、優位性に関する現代の修辞には特に重要で、というのも、金銭による分裂は現代の修辞的状況に行き渡っており、ばらばらになった人間の理想的統一を主張する「神秘化の」言葉が特に差し迫った必要となっているからである。従って、ヴェブレンの「金銭的な」動機の圧倒的な強調はまさに我々が求めているものだと考えられる。しかしながら、彼の金銭動機は「捕食本能」であり、人類学者たちが研究する行動より「原始的」でさえあって、現代社会はせいぜい野蛮人や中世貴族の衒示的動機と同様の単純化された説明で非難をこめて分析される。現代生活そのものがある種の誇示的な雄弁であり、社会的見せびらかしそのものが、その背後にある不安よりも基本的な動機として受け取られる。
「金銭的」動機は、言語的動機の特殊例として分析するべきだと我々は主張する。そして、言語的な動機は、明らかに、特定の聴衆への訴えかけではなく、<一般的な訴えかけの論理>(世俗的には「社会化」として扱われ、神学では「義認」として扱われる)による説得を含んでいる。すべての言語にある還元、抽象、隠喩、分析、総合の力は金銭の特徴とも対応する。金銭的な動機のもとで最終的にどんな風変わりな欲望が生じるにせよ(特にその動機が適切に働いていないとき)、ヴェブレンの還元は、ある種の無表情な諷刺として楽しまないと人を誤解させるものとなる。そう斟酌して読むと、非常に啓発的である。額面通りにとると、あらわになるのは人間関係の表面的な修辞で、ヴェブレンが分析しないままに残したより深い修辞は隠されてしまう。
この本は同一化(そしてその主要な働きとしての代行)が働く場合を例示するものとして価値がある。男性が妻のために金銭を得ようと働きすぎて死んでしまう「代行的余暇」が双方にとって無益だというのは、うまいイロニーであり、うまい風刺的還元である。最上の部分において彼の本は、このもったいぶった不条理を体系的に利用しており、社会が善、真、美(因習的儀礼、「高い教養」、美意識)と見なすものにまでその反映を見ている。
「派手な消費」、「代行的消費」の動機についての彼の考えには、彼を経済学者と見なすだけでは十分ではないものが含まれているが、それについては「アメリカ流儀」を論じる際に示すことになろう。彼が博識をもってあざ笑った誇示の諸形式は「証言」の諸方法として扱い得る——それは、説得としては程度が低いが、多分、いかにそのあらわれが反語的に歪められていようと、真正な敬虔さの要素がある。
「所有権の根っこにある動機は」とヴェヴレンは書く、「競争である。そして、同じ競争の動機が、それを生じさせる制度のさらなる発達において働き続ける」と。しかし、「所有権の根っこ」とはどこにあるのだろうか。それは、生誕から死に至る、人間という個々の有機体の<分離>にある<神経組織の個人的求心性>ではないだろうか。身体が食べ飲むものは特殊で個人的な財産となる。身体の喜びと苦痛はもっぱら自身の喜びであり苦痛である。感情移入や共感、互いの心的状態との「想像的」同一化による代行的共有が存在するのは本当である。そして、協同作業と言語の相互交通があり、それによって人間社会は孤立した個人の集まりではなく、従来合理性、意識、良心、「神」などの名で通っている相互依存の原理を含む超越的な存在となる。それぞれが唯一無比の中心をもつ多数の個的な神経組織が一緒になり、この協同作業と分離との不確定な混合から「基本的な修辞的状況」の条件が発生する。私的所有に向かう生物学的誘因に加え、生産と言語の高度の成長が公的、共同体的性質に多くを負うという事実がある。そして、一度高度に発達した公的所有が集積されると、個人所有はばらばらの神経組織の求心性に本来ある生物学的刺激の表現であるよりは、その集積物の一機関となる。所有の礼賛は公的な規範を反映するものであり、規範は所有によって差異化される社会的階級と同一視される。そして、競争とはある点で優位に立っていると考えられる階級の流儀を模倣することから生じると思われる。
我々は前に、イソクラテスが考えた「優位」という観念の「精神化」について語った。同様に、「競争」も精神化することができる(プルタルコス流の対比列伝の理論のようなもので、競争は「高貴な」範例に従おうとする倫理的な欲望を意味する)。ヴェブレンはそうした「高貴さ」については用心するよう、あるいは、そこにより排他的な上昇志向の象徴的な主張を見るよう警告するだろう。しかし、ここまできた我々は自問する。競争が模倣の特殊例に過ぎないのだとすると、模倣そのものの動機とはなんなのか、と。
ヴェブレンの本で、競争の「対抗的」、「捕食性の」、「金銭の」、「ねたみの」本性がより広い概念である模倣一般に道を譲っている場所が一カ所あるのを思い出しておこう。こう彼は書いている。
敬虔な生を形式的に支える諸動機において、より特徴的で、より浸透しているそれと異質な要素は、周囲の状況との非敬虔的な美的適合であり、神人同形的な内容が排除された後に残存する当世風の崇拝である。・・・美的適合の意味や衝動はもっぱら経済的性格のものではないが、産業発達の最近の段階における経済的目的に合うよう個人の習性を形成することが少なからぬ間接的影響を及ぼしている。
「周囲の状況との非敬虔的な美的適合」とは模倣の特殊例ではないだろうか。しかし、恐らくこの問題に答える前に、我々がなにを狙っているかを明確にしておくべきだろう。
資本家擁護のためだろうと資本主義批判のためだろうと、競争という主題を考える際、我々は競争そのものは模倣の特殊例に過ぎないと見ることから始める。というのも、我々の社会において実際に行なわれる競争を論じるとき、いわゆる競争と呼ばれているものはほとんど熱狂的と言えるまでに<一致>を求めていることを発見するからである。仕事において、ビジネスマンの家族が社会的関係において、いかに自分たちの身分にふさわしいと感じられるしるしを集め、誇示しようとしているかを考えるとき、我々は次のように結論する。「同一化」の観点からすると、我々が「競争」と呼ぶものは人間がお互いに<まねし合う>試みとしてよりうまく記述される。
模倣は本質的に劇学的な概念である。表面にあらわれた行動をそのまままねることも、そうした行動の<基礎をなす原理>を巧妙にまねることもできるので、様々な方法を共にすることで人は同体となる(「同一化」)。(この動機を「擬人的」というよりむしろ「劇学的」と呼ぶことで、我々は「擬人的」という語にしばしば潜む過った前提、つまり、人は「擬人的」とは別の方法で「人間」であり得るという前提を避けることができる。)
模倣がもっとも一般化された用語だとすると、競争はその特殊例をして扱えよう。「ねたみ」という用語はすぐ取り去られることとなろう。科学の仮面をかぶって風刺を行なうヴェブレンの口当たりのいい修辞はこう特徴づけられる。彼は批判的で党派的な言葉をより一般化された用語で置き換えることで、党派的な意味合いを斟酌するよう我々に求めるのである。
競争は、彼以前の作家では、その倫理的主張は世俗的な野望の痕跡があると不審がられていたものの、道徳的な意味合いでの模倣を指しており、物質的現実を儀式的手段によって押さえ込もうとする「魔術的な」試みであるとさえ考えられていた。(例えば、道徳的善は自然からの報いを得るという潜在的希望があって、『コーマス』【ミルトン作】では、貞潔が野獣に対する防御となっている。)しかしながら、非言語的な自然と人間の関係に関する限り、潜在的に「魔術的」であるかもしれないが、人間同士の関係ではまさしく修辞的である。修辞に気を配っていたモラリスト、ロシュフーコーは次のように言っている。世界で確固として存在になるには、そう見られるようにできる限りのことをしなさい、と。(Pour s'eablir dans le monde,on fait tout ce que l'on peut pour y paraitre etabli.)その変種はコルネイユの劇理論で使われている「称讃」で、特権による華美を美的な判断基準に結びつける特殊な用語になっている。
要約すると、ヴェヴレンが「ねたましさ」に還元しているものは、模倣に還元されるべきだと我々は信じる(もちろん、彼の戦術上の目的が科学的ではなく、風刺的である限りは例外である)。もし彼の動機についての発言がこう還元されたなら、彼は次に、ある状況が好む特殊な「ねたましさ」について考えることができただろう。同一化と代行の結びつきにおいて、「ねたましさ」がいかに間接的なあらわれであるかを示し、いま述べているような修辞についての価値のある洞察を与えてくれたろう。こうした修正作業は、別の場合であったら外側から導入されねばならない矯正を与えてくれよう。同じことは、程度は様々だが、競争だけで模倣を論じようとする者にも当てはまり、その場合、前提とすべきであった要因を偶然に発見するか、近い将来に得られる知識としてそのままにしておくことになる。