ケネス・バーク『動機の修辞学』 26
.. 大きな修辞形式
より大きな説得の形式もあって、聴衆の善意を守ろうという前置きから始まり、次に自分の立場を述べ、そして議論になっているところを指摘し、十分に自分の見解を述べ、反対者の主張を退け、最後の締めくくりには、反対者の論点は無視して(非難や皮肉や感情への訴えかけなどにも頼る)、自らが支持する点について言い足したり補強したりする、といった段階的進行である。細かな付帯的効果を分類し分析することに没頭していた古典的修辞学者たちは、こうした大きな形式の原理については軽視していた。だが、交響曲の進行のように形式的な、弁論の一連の流れのことは認識していた。(アリストテレスの第三巻は、このことを精力的に論じているが、クウィンティリアヌスに損害を与えた収益逓減の法則を招かないようにしている。いまあげた段階はキケロの一節を大雑把になぞったもので、そこではクラッススが弁論家の標準的な教育について簡単に概観している。)しかし、文学理論は伝統的に大きな構造の分析に弱く、その理由として、ばらばらな文体の効果は引用に適しているが、大きな形式的展開の議論は扱いにくいということがある。(想像力の<統合化する>機能を強調しているコールリッジでさえ、総合的な意味での構造的統一の分析はせず、ある種の方法論的な撞着語法のもと、断片的な例で全体的な構造を示している。)
しかし、説得の技芸が適切に大きな形式において論じられるような場がある。それは、修辞の種類、スタイルの種類、修辞家の働きや義務(キケロの言うofficia oratoris)が一般化される場合である。
大まかに言って、<受け手>の方から見ると、聞き手は話を聞くのに三つの主要な目的がある。将来のことについてアドバイスを聞く、過去の行動についての判断を下す、あるいは単に話や話題そのものへの関心である。この区別を基本にして修辞の<種類>を分類すると、アリストテレスの『修辞学』にある伝統的な三つの形を得る。(1)審議的、聞き手をある公的政策に動かそうとする場合のように、将来に向けられたもの。(2)法廷、あるいは裁判的。過去に関わっていて、陪審員の心を被告の有罪か無罪かに動かそうとする。(3)演示的(誇示的で、「見せびらかす」弁論で、時には頌徳文とも呼ばれる)。三番目のものは、容易にがらくた入れになる。アリストテレスはそれが賞賛や非難を目的とすると言っている。そして、主に現在に関わるとも言っている。ギリシャ修辞学の高みにあっても、そうした範囲に含まれる。追悼の辞、公的人物への賛辞(あるいは非難)、都市や同国人を称揚する愛国的辞、動物や物に対する遊戯的でしばしば言葉遊びによる称賛(あるいは遊戯的な罵倒)。
多分、誇張的修辞でもっとも現代に根づいているのは、戦争における英雄の犠牲的生を描いた「人間的興味をそそる」物語や、自国資源を利用した政府の計画に則り敵対者に勝利する個人や集団の達成を称揚するソヴィエトの作品(プロパガンダ映画を含む)がある。キケロは、誇張的修辞(頌徳文、laudatio)が、美徳を「その持ち主だけでなく人類一般」にとって有益なものとして扱うべきだと言った。かくして、もっとも歓迎される称賛とは、「利益や報酬なしに行われる行為に対するもの」である。傑出した市民のしるしとは「他者の益となる美徳」であるから、骨の折れる仕事や個人的な危難はよい主題なのである。
アリストテレスは、多分、未来(方策についての慎重な配慮)と過去(既になされたことに対して正不正を決める法廷的な関心)を定義したので、消去法によって主に現在関わるものを必要とし、演示的弁論をそれに割り当てたのだろう。「誇示的」で演示的な語り手も、称讃と非難(名誉と不名誉)の関わりにおいて、すべてを思い起こすかのように、頻繁に過去を振り返り、未来を見やる、と彼は続けている。しかし、この種の弁論にもっとも適切な時間として現在を選択することは別の理由によっても正当化される。しばしばこの種の「見せびらかし」の修辞は、論じられている事柄に対する称賛ではなく、弁論それ自体に対する称讃を聴衆に求める。こうした弁論には、過去の行為について陪審員を説得したり、未来に関する決定をしむけるといった隠された目的がなく、雄弁そのもののが与える楽しみを目的とし、言葉と語り手そのものに訴える部分があるので、現在のものだと言える。「称賛の豊富な材料」があり、「もっとも装飾的に」(ornatissime)論じられるために、労苦と個人的な危難を頌徳文に最良の、最も受け入れられやすい主題としてキケロが選択したのには、主題の魅力と言い表し方そのもののの魅力が混じり合うからだと見て取れる。
明らかに、この第三の形式は修辞学が衰退した時期にもっとも用いられたもので、そのとき、共和国倒壊後のローマにおいて公的な討論がもっていた民主主義的な働きは縮小されていた。そうした時期、隠された目的を持つたくましい修辞は、公的な発言ではなく、宮廷の記録されない陰謀のなかに見いだされるだろう。そして、公的な修辞は、説得の形式だけが残り、学校の教程のように任意に選ばれた主題だけが扱われるようになり、あらゆる手段を使って自らを見せびらかすだけのものとして発達していった。しかし、これは誇示的な修辞に当初からあった傾向を極端な形で表現したものである。誇示には、最も本質的な動機が含まれていた。力ではなく言葉にって説得することの一部として、雄弁そのものを愛することが含まれているからである(言葉を使うように生れ、言葉を武器にする者は、他の動物の動機とは異なる、人間の諸動機の中心に密接に関わっており、他の手段で成功するよりも、失敗しても言葉による説得を試みるだろう)。雄弁はそれ自らを目的とし、言葉に対する愛から始まるという批評家は、その精神において誇示的でなければならない。
純然たる喜びに訴えかける誇示の「現前性」は、それがなぜ、アリストテレスによれば、書かれた言葉に最適のものであるかを説明する。理由は、その効果を味わうことができ、より詳細なたゆまぬ吟味によって利益を得ることができるからである。また、純粋に見せるための修辞は、それ自らを目的とする詩的な訴えかけと密接な関係があり、修辞学と詩学の中間にある様々な問題を扱うことができる。本来法廷の方法であるものさえ技術として使用できる。かくして、女性を称賛したり、愛について嘲笑や非難を浴びせたり、恋する者が愛人を「訴訟」し、告発するイギリスの伝統的な恋愛詩においては、詩的な目的のために利用される遊戯的な修辞形式を読者が見ないなら、詩人の駆け引きが、作者が読まれたがっているようには読まれていないことになる。(こうした詩的奇想に含まれる修辞的伝統についての優れた議論は、ロザリンド・テューブの『エリザベス朝詩人と形而上学派の文学的形象』を参照のこと。)
いま考えてきた遊戯的、美的な使用のほかにも、この種の修辞は隠された目的のために応用されることもある。キケロとクゥインティリアヌスの二人は、普遍的な命題(quaestiones)と個々の事例(causae)との伝統的な区別に大きな貢献をした。普遍的命題quaestionesはしばしば、単純に真偽を問えるような問題からはまったくはずれる(真理は正義よりも重大かどうかを議論するような場合)。個別の事例causae(あれこれの人間があれこれの犯罪を犯したときあれこれの罰がふさわしいかどうかを議論するような場合)に関わるとき、修辞は<決疑論>の活動範囲に入る(キケロが言うように、人々の数だけ個別の事例causaeがあるが、修辞の適用範囲は<唯一無二な>すべての事例を覆うことが望ましい)。唯一無二の事例すべてにおいて、個々の事柄に普遍的問題を適用することが必然的であり、広範囲にわたる状況であっても唯一無二な性格をもっている限り、修辞の普遍性と特殊性とは重なり合う。(例えば、歴史の個別の時代は、文化的要素の組み合わせが互いに異なっているので、いかに歴史家や経済学者や社会学者などが科学的であるかのように振る舞おうと、科学的装いそのものが、修辞的決疑論のなかで形式的に見て取られるならば修辞的にそれほど効果的なものではなく、歴史記述はある程度修辞的決疑論に身をゆだねることは当然なのである。)
法廷的、裁判的な弁論については(訴訟における告訴側と弁護側の論弁のように)十分明瞭であろう。また、アリストテレスが主要な関心をあてた審議については、そうした「弁論」は、今日、特に「情報」、「知識」、「科学」として書かれるものの至る所に存在するのが見て取れる。例えば、方法と手段、戦争と平和、国防、輸入と輸出、法律制定、についてである。
三番目の種類の修辞を賞賛と非難に限定するなら、クウィンティリアヌスが言ったように、「不平を言う、慰める、なだめる、励ます、脅す、勇気づける、教える、説明する、物語る、哀れみを請う、感謝を述べる、お祝いを言う、叱責する、呪う、評する、命ずる、撤回する、意見や好みを述べる」などの修辞的働きはどこに位置づければいいのだろうか。こうした疑問は文体と働きによる別の分類法を導きだす(キケロによる三種の弁論の役目officia oratoris)。『弁論家について』よりも初期の作品、『弁論家』において、より簡潔な言葉づかいを主張してローマに勃興していた「アッティカ派」に反対し、言語の豊富さを擁護した箇所で、キケロは三種の文体を区別している(genera dicenti,genera scribendi)。大げさな文体、平易な文体、抑制された文体である。そして、弁論家の三つの「任務」をあげている。(1)教えること、伝えること、教育すること(docere)。 (2)喜ばせること(delectare)。(3)動かすこと、「屈服させること」(movere,flectere)。
彼はまた、より個人的あるいは個別的な意味での文体についても語っており、弁論家が詩人と近い関係にあり、詩人はみなそれぞれ自分の書き方をもっていることに触れている(そして、余談めいた批評で、古代において有名だった様々な作家の個人的な文体を簡潔に特徴づけた見取り図を描き、その特有な質を味わっている)。しかしながら、弁論の三種の文体は、個人的な表現ではなく、三つの「任務」を果たすための手段と考えられる。つまり、平易な文体は教えるのに最適で、抑制された文体は喜ばすのに、装飾的な(大げさな)文体は動かすことに最適である。人間本来の弱さのため雄弁家はいずれかのスタイルだけに有能なものだが、弁論というものが三種類のすべての働きを目指す以上、理想的な弁論家はすべての文体に精通しているべきである。諸感情への包括的な訴えかけによって聴衆を<動かす>のが最終的な目的であるにしても、彼らの関心を捉えねばならない(それ故、言語的な喜びを使用することになる)。明晰さという基礎がなければ、関心を引くことも、動かすこともできない。(キケロが言うには、弁論家は可能な限りその弁論を教育のために使用するべきだが、徹底的に、しかし意識することなく、他の二種の働きも弁論に注ぎ込むべきである。)
このように、文体と任務で修辞を分割することで、アリストテレスの理論とは異なった角度での切り分けがされることになる。しかし、抑制された文体は、喜ばすという目的において、雄弁そのものを目的とする誇示的弁論(genus demonstrativum)と密接な関係にある。キケロも誇示の働きは認めている。しかし、それは、隠された修辞的目的がなくなる限りにおいてのみ雄弁の<目的>となるのである。
ロンギヌスの『崇高について』は一世紀か三世紀に書かれたと考えられている。アリストテレスの『弁論術』が紀元前330年、キケロの『弁論家について』が紀元前55年、クインティリアヌスの『弁論術教程』が一世紀後半、アウグスティヌスの『キリスト教の教え』の第四巻が426−7年だとすると、ロンギヌスをクインティリアヌスからアウグスティヌスへの移行期に位置づけることができれば、非常にすっきりとした「曲線」が描かれるだろう。単なる楽しみのための文学が(目的のある弁論や議論もこうした「美的な」観点から見られる)デカダンスのしるしなら、そして、ロンギヌス自身、時代の浅薄さを遺憾に思っていたなら、新しい書き方が起こったときに高揚した彼の文学に対する愛情は、アウグスティヌスのキリスト教信仰への熱狂に、異教世界において比肩しうるものに思える。ロンギヌスの論考は、キリスト教が制度的な勝利を収める<以前に>、キリスト教のモチーフを完全に審美化したものであり、それは現代の文学愛好の多くがキリスト教の<遺物>であり、信仰や熱情を純粋に美的な「洗練」への崇拝に変形してしまったようなものである。
いずれにしろ、アウグスティヌスでは、キケロにあった修辞の隠された目的の強調が再び元通りにされているのが見て取れる。また、アウグスティヌスがもっぱら関心をもった修辞学、キリスト教的生へ聴衆を説得する修辞学は、「正反対の事柄を証明する」技術について体系的に考察することを目的としていない。彼の論述の幅は、狭くなっていると同時に広くなっている。狭くなっているというのは、言葉を一つの目的、キリスト教の教えにしか使用しないからである。広くなっているというのは、そこで確立された説得のあり方が普遍的な動機づけの教えだったからである。彼の説得の議論は一般的に聖書の精密な分析に基づいており、そこから抜粋し、研究することによって<技能>を高めていった。彼の文学的批評眼は、ロンギヌスと同じくらいたくましく鋭かったが、その批評は常に隠れた目的である信仰のプロパガンダに従属している。彼の聖パウロについての批評は特に説得力があって、パウロもまた彼のように護教論に精通しており、改宗による再生で経験した厳しい内的葛藤の記憶、議論の敵対者同士のように争い合う内的な声によって鋭敏にされたコミュニケーションの問題についての繊細さも共通している。
キケロの弁論の三種類の任務を適用している箇所で、彼に特徴的なのは、平易な文体(つまり、教えるための文体docere)を「押さえられたもの」(genus submissum)と名づけていることで、このことがはからずも示しているのは、キリスト教徒であるとともに一人の人間として、彼は多くの者がなんの制限もなしに実行していることに<自ら制限を課さねばならなかった>ことである。次にくるのが「抑制された」あるいは適度な文体である。(彼は穏健な文体が批評や称賛には最適であり、神の称揚にさえこの文体が適しているといっているが、誇示的な文体に影響を受けていることは明らかである。)しかし、なにかなすべきことがあるとき、「心を動かす」(ad flectendos animos)必要があるときには大きく(granditer)語らねばならない。ここで再び、我々はロンギヌス美学のキリスト教によるレプリカを見ることになる。というのも、ロンギヌスの「崇高」が、恐ろしいものについての観念とイメージで最高潮に達するように、アウグスティヌスの荘厳体における熱意と激しさは、神を無視することの警告に特に適していると言われるからである。
しかし、キリスト教の教義によって提示された動機づけの<全体性>は、個別の事例における修辞と一般化における修辞との関係に新たな鋭さを与えた。というのも、三種類の文体はそれぞれ適した目的があるわけだが、アウグスティヌスはキリスト教の修辞で扱う話題はすべて荘厳体で扱うことがふさわしく、というのも、この世のことで神の力に因らないものはないからだ、と言うのである。かくして、一般的観点からすれば金銭問題は些末かもしれないが、真のキリスト教徒にとっていかに小さなことであっても些末な問題などはあり得ない。そういうわけで、聖パウロは荘厳体で金銭について語るが、そこには正義と同胞愛と公正さの問題が含まれ、「健全な者であれば、どれだけ些細な問題にも大きな問題が含まれていることを疑うことはできない」のである。こうした修辞の影響は明らかである。すべてが神のものであり、神のために、神を通じて存在するのだとすれば、低所から高所へ向う段階はどこにでもあることになる。『動機の文法』で「神」を項についての項、称号についての称号、XについてのXと見たように(アリストテレスが神の定義とした「思考についての思考」が範例になっている)、『動機の修辞学』では(古典的理論で割り当てられていたような意味での「常套句」を用いて)、「神」を常套句についての常套句、論題についての論題、個別の<原因Causa>の背後にある普遍的な<問題Quaestio>、個々に議論される問題が総体的に還元される究極と見る。
皮肉なことに、異教世界の「第二のソフィスト時代」を通じて腐敗していった修辞学の威厳を復活させようとしていたアウグスティヌスだったが、キケロやクインティリアヌスの雄弁と道徳的卓越性を同一視する試みについてははっきりと否定している。アウグスティヌスは人間の道徳的光輝などよりもより重大な「真理」を主張していたのである。それ故、伝道者にとってのよき生とは、キリスト教の教義を布教する強い信仰心にあるが、その教義の力はいかなる人間的自然的入れものにも収まらず、それを越えている。伝道者はキリスト教教義を自分の地位を高める目的で伝道し、嘘をつくことさえあるかもしれないが、教義を正しく伝えさえすれば、その動機が間違っているにもかかわらず、教義に本来備わった価値によって、伝道は正しいものたりうるのである。
真理の力は、それを示す個人の限界を超えるというこの考えは(あるいは、アウグスティヌスが言うには、その椅子cathedraがなにが正しいか言わざるを得なくする)、現代の状況においては皮肉な適用がなされていて、キリスト教の用語法における「真理」は、科学の用語法においては物質的なものとなっている。ここでも、真理はそれを伝える者の悪徳を越え得る。実際には、不運なことに、同様にその美徳をも越える危険がありうるのであり、しっかりした規律と使命感に従って熱心に働いた者の得た完璧な力が、その有効な実用において、他の地位にいる人間によって、人類の存在を脅かすような具合に使われることもありうるのである。
『弁論家について』でキケロは、「演説の能力は知恵のもっとも深い泉から湧きでている」(ex intimis sapientiae fontibus)と言った。同じ議論を心にとめ、アウグスティヌスは聖パウロについて「知恵に従う者にして、雄弁の先導者」(comes sapientiae,dux eloquentiae)と言っている。しかし、顕著な相違がある。キケロは修辞を知恵と等しいものとしたが、アウグスティヌスはそれらを順序づけた。彼の図式では、知恵(哲学、「弁証法」)が「雄弁の源」であるのは、それが雄弁とともにあるからではなく(キリスト教教義の「真理」は雄弁なしにも述べることができるから)、雄弁の<根拠>だからである。かくして、アリストテレスは修辞と弁証法を双方とも言語的な手段に分類したが、アウグスティヌス(ストア派もまた)は弁証法を言葉以上のものだとした。もし弁証法が正しいなら、それは<諸事物>の究極的な本性を扱っており、装飾(雄弁、修辞)の使用を導く言語外の対象をもっていることになるからである。修辞の目的は「言葉による説得」(persuadere dicendo)であった。しかし、人間的言語の背後にあるロゴスの原理にあるのは別の意味での「言葉」であり、現実と<等しい>種類の言葉である。アウグスティヌスの修辞理論の底にあるのはこうした仮定であるように思える。このことから、修辞学の「任務」で<教える>ということが強調されるようになると思われる。
キケロは言葉ともの(verbaとres)に大きな相違を設けた。アリストテレスも、言葉の技芸としての修辞学を、それぞれが特殊な言語外的対象をもっている諸科学と区別したとき、同じ線に沿って考えていた。アリストテレスが『弁論術』で行った、空腹のような自然な誘因と「理性を通じて」(para logou)生じる誘因との区別は、しばしば英語では、「論理的」動機と「非論理的」動機の区別として翻訳される。しかし、ロゴスは「理性」と「言葉」のどちらをも意味するので、アリストテレスは非言語的な動機(alogoi——言語に相当するものがなくとも生じる欲望)と「言語的な」動機(para logou——その発達が言語に依存している欲望で、人間の目的が単に「生きること」から「よく生きること」に変化するのに従い生じる「新たな必要」を伴っている)とを区別しようとしているのだと思われる。
いずれにせよ、教育を修辞学の一つの目的とすると、修辞学の有効範囲が説得を越えて広がるような原理を導入することになる。その過程には理論的作業や解釈の実践、記述、<コミュニケーション>一般が含まれる。かくして、最終的には、この原理から、現代の「意味論」が修辞学の一側面として派生するのである。
こうして、三種類の「任務」が最終点に行きつくと、それぞれがそれ自体を目的にすることで説得という動機(隠された目的)を越えていくのが認められる。理想的な記述言語は、勧告の言語と<対照的な>場所に位置づけ<られる>。しかし、修辞<から>導き出すこともできる。修辞の三種類の「任務」の第一のものにだけ固執すれば、そうした理想を得られるからである。すると、アウグスティヌスの考え方に従えば、修辞が弁証法に重なる地点に辿りつき、今度は<諸事物>の本性(すべての言語の非言語的な基礎)として捉えられるようにもなるのである。