ケネス・バーク『動機の修辞学』 25

. 形式的訴えかけ

 

 いかに同一化の原則を含んでいるかを示そうと、形式的な訴えかけについて先に言及した.ときには、その普遍的性格から、修辞学から詩学への移行が容易になされた。かくして、効用というより、文学的評価の観点から偏向的な弁舌をも考察し、ロンギヌスは形式そのものにおける効果の「崇高さ」を分析している。デモステネスが説得するために聴衆をよりよい場所に導こうとしているのに、ロンギヌスは導くことそのものを目的としている。つまり、興奮の質を伝えようとし、それを産み出す手法をあらわにしようとしている。実際、彼の論において鍵となる語は、通常「崇高」と翻訳されるが、聴衆をある決定に動かすという修辞学的な意味の「動かす」ではなく、詩を語るときに「なんて心動かされるのだろう!」と言うときの動かすに近い。

 

 正直なところ、修辞的技巧の一覧は極端に長くなってしまった。いずれかのパターンをとることなしには一言たりとも発言することはできないだろう。その形式は、個別な問題に当てはめることがなくとも抽象化し命名することができるが、そこから多様な問題において「再個別化」が可能である。観察、抽象、分類が十分する勤勉さがあれば、どんな表現も(一貫性を欠いていたり、不完全であっても)骨格の構造に還元することができる。ギリシャやラテンの修辞学の教師はそうした勤勉さもっていた。そして、実際にどんな表現になろうとも、形式的な雛形として名前をつけ、数多く蓄えていた。かくして、接続詞の繰り返しによって進む表現は(「これ、<そして>あれ、<そして>それ」)、<連辞畳用polysyndeton>となる。接続語をなくすと(「これ、あれ、それ」)、<連辞省略asyndeton>となる。詳述や強調があると、敷衍(<肥大>auxesis)となる。厳かなものをそれほどでもないように扱えば、<緩叙法meiosis>となる。期待が形づくられるまであるものを積み重ね、突然期待を外すことで、できていた均衡を崩すなら、<急落法bathos>になる。言葉が音楽的で同じ終わり方をするなら、<homoioteleuton>(ついでにいうと、ギリシャ人は「homoioteleuton」とは言えず、「同様の終わり方」と言わねばならなかった)になる。語句の始めに同じ言葉を繰り返すなら、<首句反復epanaphora>になる、等々。クローチェは、漸進的効果をもつこの用語法にこそ修辞学の本質があると考えているようである。クローチェと態度をともにすれば、近代において論理学、修辞学、詩学は「美学」に取って代わられ、これらの形式は「単なる修辞学」にまで追いやられているにもかかわらず、「技術から生まれた雄弁ではなく、雄弁から生まれた技術」としてキケロクインティリアヌスを引用できる。

 

 修辞的技巧は、押しつけがましい、退廃的な飾りともなりうる(ローマにおける「第二のソフィスト」の時代のように)。しかし、もっともこれ見よがしの装飾でさえ、切迫した問題から生じていると信じるにたる根拠を我々は示した。異教の修辞学が弱体化したとき、言語的修練は技巧を見せびらかすためだけのものだった。かくして、皮肉なことに、見事で、熱狂的なロンギヌスの分析は(「熱狂」という語は彼の用語の一つである)堕落へ向けての一段階となったのである。しかし、改宗以前に異教の修辞学の訓練を受けていたアウグスティヌスは、衰退していた諸形式を熱意のこもったキリスト教的説得に再融合した。

 

 アウグスティヌスに特徴的な技巧の一覧はテレーズ・サリヴァン尼僧による『聖アウグスティヌスキリスト教の教え、注釈付き改訂、序、及び翻訳』S.Aureli Augusti De Doctrina Christiana Liber Quartus,A Commentary With a Revised Text,Introduction,and Translationにある。(英語におけるその力強い使用を包括的に研究したものとしては、ミリアム・ジョセフ尼僧の『シェークスピアの言語芸術』がある。)キケロの『弁論家について』の第三巻には、「思考と言語に光を与える」(luminibus sententiarum atque verborum)多様な源泉が概観されている。キケロの一覧からいくつかを選んでみると。

 

 主題に腰を据え、それをもとの場所に戻す(commemoratio想起)、眼前にもたらす(explanatio説明)、どちらもある事柄を述べ、例示し、敷衍するのに役立つ。概観(praecisio簡明)。からかい(illusio反語)を伴った非難(extenuatio小さくすること)。主題に手際よく戻る逸脱(digressio遠ざかること)。言おうと計画した通りの発言。既に言われたことから区別すること。既に確定された点に戻ること。敏速に三段論法的形式にまで還元される反復(apta conclusio結論への適応)。誇張と控えめな表現。修辞的疑問。あることを言い別のことを意味させるイロニー(dissimulatio反語)。大声を張り上げるのではなく、会話の調子で聴衆に効果を与える技巧。深く考えるのをやめること(dubitatio不確定)。素早く効果的に整理できるように、主題を要素に分けること(distributio分類)。対立者の発言や、自分自身が言いまたは言おうとしたことに誤りを見つけること(correctio訂正)。自分の言おうとしていることに対し聴衆に用意をさせること(praemunitio聴衆にあらかじめ心構えをさせる)。責任の転嫁(traiectio in alium他人に向ける)。聴衆から相談を受けることで協調関係を結ぶ(communiccatio聞き届けること)。模倣。ものまね(これを彼は、敷衍のなかでも特に重要な<光>だとしている)。間違った手がかりを残すこと。笑わせること。出鼻をくじくこと(anteoccupatio先手を打つこと)。「最も人を動かす」比較(similitudo類推)と例示(exemplum模範)。妨害(interpellatio人の言葉を遮る)。対照的な立場、正反対の意見を並べること(contentio対照)。効果を増幅させる目的で、熱狂的なまでに声を張り上げる(augendi causa主張の声を大きくする)。怒り。激しい非難、呪い、不賛成、機嫌をとる、嘆願、願い「ああ、願わくば・・・」(optatio希求)——そして、もちろん、意味深い沈黙もある。

 

 最後の点に関しては、古い楽器の伴奏で歌を交えながら、授業をした音楽の教師を思い出す。時折彼は一休みに入り、胸のポケットからハンカチをとると、注意深くそれを開き、軽く手を触れ、それからゆっくりと骨を折って再び畳み直すと、ポケットに戻すのだった。その間、学生たちは手品師の手品を見るように、注意深くその沈黙の儀式を見守るのだった。

 

 もう一人の教師は、神学者だったが、説教のような講義を定期的に中断すると、宙を見つめるのだった。学生は驚異を待ち望んでいる——すると、徐々に語り手の表情は変化し、遠い深みからまさに次のアイデアをとってきたのが明らかになるのである。次のメッセージを遙か彼方まで探しに行き、その眼を熱心に上方へ、右へと向けることもあった。身をかがめ、下を向き、熱心に左手を見ることもあった。きっと彼は変化をつけるために姿勢を変えていたのだろう。しかし我々は考え始めた。上を、そして右を見るときには、彼は天上から観念をもってくることができるのだが、下を、そして左を見るときには地獄から吹き出す蒸気が運んでくるものを得ているのではないか、と。

 

 キケロは技巧の一覧を、威嚇や攻撃にも、単なる見せびらかしとしても使える武器になぞらえた。彼はまた、変化を伴った反復についても述べている(ラテン語には語尾変化の多さと、語順の自由さがあるので、英語ではまねをするのさえ困難な多様な効果を出しうる)。そしてこう続ける(以前と同じH・ラックマンの翻訳によるローブ古典叢書から引用する)

 

  それにまた、一段ずつ進むやり方(gradatio)、語の倒置(置き換え、字位転換、conversio)、調和のとれた語の交換、対照(contrarium)、小辞の省略(dissolutum)、主語の変更(declinatio)、自己修正(reprehensio)、感嘆詞(exclamatio)、省略形(imminutio)、ある名詞を様々に使う[英語でいうと、ミードのスローガン的な常套句「『私を』観察する『私』」に当たるだろうか]、などといったことがある。

 

彼は更に続け、語の選択についての慎重なためらい、ある点での譲歩、驚き、連続と不連続(continuatum et interruptum)、イメージの使用(imago)、換喩(immutatio)、「語の区別、秩序、前のことへの参照、逸脱、迂言法」(disiunctio et ordo et relatio et digressio et circumscriptio)、質問をして自分で答えること、について言及している。

 

 ついでに言うと、議論が紛糾しているときに、最後の技巧を使うことは、熟練した弁舌家でない限り、悲惨な結果を招きうる。前の戦争のとき、連合国軍がイタリアを占領してまもなく、哲学者のクローチェは君主制に賛成する発言をしようとしていた。まさに都合のいい時期だったのには、群衆は古くからの自由主義者として彼に敬意を払うように命じられていた。ある箇所で、彼は自ら問うた、「我々は王の復活を望むだろうか」と。しかし、彼が自ら「望む」と答える前に、聴衆が雷鳴のようなとどろきで「否!」と叫び返したのである。(他方、コールリッジが語るところによると、デモステネスは聴衆の乱暴な応答をわざと誘ったという。「王権の一員として」と対立者であるアエスキネスを攻撃するときに、彼は聴衆に問いかけた、「アエスキネスはアレキサンダーの雇われ者なのだろうか、それとも友人なのか」と。しかし、彼は僅かに「雇われ者」の発音を違え、間違った箇所にアクセントをおいた。聴衆は、演説の目利きとして、正しい発音で「雇われ者」と彼に叫び返した。彼は満足した様子で締めくくった、「みんながなんと言ったか聞いたであろう」と。)

 

 すべての修辞的技巧のなかでももっとも徹底的なのは敷衍である(ギリシャ語ではauxesis)。拡大する、強める、威厳をつけることによって敷衍できるので、広範囲にわたる意味を扱えるように思える。後の二つには正反対の技巧があって、減少(meiosis)がそれである。しかし、拡大すること、詳述すること、累積によって説得力が増すまで様々な方法で語ること、そうした敷衍は詩の形成過程とも言えるので、叙情詩でテーマを体系的に活用するのはリフレインに基づいてなされる。この意味において、秘められた魂胆があって用いられていることは全くないけれども、ポピュラーソングに特徴的方法としての「修辞」を指摘できる。多分、減少meiosisの戦術を効果的に使っている作品は(例えば、『ガリヴァー旅行記』の風刺)、逆説的であるが、減少を敷衍しているものとして扱うことができるだろう。