トマス・ド・クインシー『スタイル』21

 かくも尊敬している我々であるが、彼の立場を見てみよう。さて、彼が我々の主題に関わっている言明(多くの独創的な言明があるなかで)に立ち戻ると、それは<彼の>経験からはまったく正しい言明であるが、我々の経験からは遠いと言わざるを得ない。彼が言っていることは二つの国、二つの文学を経験していることに基づいているが、我々は八つあるいや九つの国を経験することで確認しているのである。彼の言明は集団となった知的力の傾向に基づいているが、その説明できない性質(彼はそう考えた)は孤立したグループを形づくることになった。彼が最初に例示するこの傾向はギリシャ文学の二つの場合である。多分それは一般的理論の基盤としては不十分なものだろう。だが、パテルクスが自分の説を確認したのは、まさにその同じ傾向が生国で起きたのを見たからだった。同じ現象はローマ知性の歴史で一度ならず明らかになった。偉大な機知の強い<努力>が集まり、同じ核に結晶化したのである。この集団はギリシャでは詩人、弁論家、芸術家からなるが、ローマでは詩人と弁論家である。パテルクスがこの興味深い言明で重要だとしたことは、読者も彼がなにを強調したかを正当に評価できるだろうが、彼がそれを導き入れるときの断固たる調子、抑圧するところを受けいれてあえて意識的に対称性を壊しているところに伺える。彼の言葉はこうである。「この部分は私が指標とする道筋からはかなり逸脱しており、回転する車輪や渦巻きの急流のように仮借ないせわしなさを要求されるいまのような状況では中休みや一時休止が許されないことは十分に気づいているが、必要なことをなおざりにするよりは冗長でありたい。私の心にしばしば去来する考えについて話し、表明するのを控えることについては自ら納得することはできないが、だが理論的に十分論じることはいまはできない。(nequeo tamen temperare mihi quin rem soepe agitatam animo meo,neque ad liquidum ratione perductam signem stylo)こう読者の注意を引いて、ほとんどあらゆる発展の時期において顕著な才能(eminentissima cujusque professionis ingenia)は一世代の狭い囲いのなかに集まっているのを観察して不思議に思ったことはないかと著者は尋ねる。それぞれの分野でそれぞれの完成を達成することのできる知性たち(cujusque clari operis capacia ingenia)は、大きな流れや仲間たちとのつながりから離れ、閉じられた孤立した集団をつくり、その長所に見合った進歩の段階(in similitudinem et temporum et profectuum semetipsa ab aliis separaverunt)を踏んでいく(注1)。パテルクスがこの命題の例としてあげていることを<すべて>ではなく二つあげよう。Una(neque multorum annorum spatio divisa)oetas per divini spiritus viros,AEschylum,Sophoclem,Euripidem,illustravit Tragoediam.この三人の詩人たちは兄弟がそうであるほど同時代にいたわけではない。だが、若い叔父に年のいった姪くらいには同時代だった。アイスキュロスソフォクレスの年長であり、ソフォクレスエウリピデスの年長である。だが、可能性としては三人が同じ卓についた(錚々たる一群)こともあり得る。また、パテルクスは言う、Quid ante Isocratem,quid post ejus auditores,clarum in oratoribus fuit?イソクラテス<以前に>弁論の非凡さというものはなかったし、彼の聴衆の<以後>にもまたないのである。ギリシャ悲劇の完成、ギリシャの弁論の完成というのはこの狭い範囲で行われた。彼が主張するところでは、同じ法則、同じ強い傾向はギリシャ喜劇、ギリシャ哲学でも例証される。ギリシャの芸術家ではよりはっきりと例証されるのである。Hoc idem evenisse grammaticis,plastis,pictoribus,scalptoribus,quisquis temporum institerit notis reperiet.

 

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 パテルクスは自国についてもこの問題をギリシャから鋭い仕方で移し替えている。すべての教えを数え上げ、驚くべき、問題になるばかりの厳正さでそれを肯定する。Adeo arctatum angustiis temporum.かくも激しい集中は限られた時間のなかで起こることに長所がある。ut nemo memoria dignus alter ab altero videri nequiverint.誰を斟酌するわけではないが、自らの領域で卓越性を得るに至った者たちを見ることができた。彼はつけ加える。Neque hoc in Groecis quam in Romanis evenit magis.

 

 彼のローマ文学からの例示すべてに我々は従うつもりはない。ただ我々の目的に必要なところだけを引用しよう。Oratio,ac vis forensis,perfectumquoe prosoe eloquentioe decus (pace P.Crassi et Gracchorum dixerim)ita universa sub principe operis sui erupit Tullio ut mirari neminem possis nisi aut ab illo visum aut qui illum viderit.ここで警句として言われているのはこうである。人工的な完成物として散文の完璧さ、スタイルの光輝があったのはキケロの世代で、キケロの同時代人以外には卓越した芸術家、大いに尊敬できる者はいなかった。それ程年長でなければキケロが見ることがあったろうし、それほど年少でなければキケロを見ることがあったろう。キケロの子供の頃にクラッススが、クラッススの子供の頃に二人のグラッチがいて(それ故、グラッチの二人はキケロは見ることができない)、弁論家として記憶に残る才能をもっていたのは事実である。彼らは悲劇的な最期を遂げた(それは偉大な<ローマの>弁論家の一般的宿命である)。そして、キケロ以上に弁論家としての彼らの威厳に満ちた語り口に感じ入った者はなく、その素晴らしい対話編『弁論について』ではクラッススアントニーが語り手なのである。だが、彼らは魔的な力はもっていたが、芸術家ではなかった。彼ら初期の弁論家たちについて(他に何人かでてくる名前は省くが)パテルクスは判断を保留している。彼らが偉人であるということを見過ごすわけではない。だが、政党の怒りの、民衆の動乱の伝え手であり、意志的に文学の洗練に結びつくことなど軽蔑している弁論家たちが一般的法則の例外だとは彼には感じられないのである。これらの弁論家たちは自分たちを知的力をもつものではなく、政治的力をもつものと見ていた。弁論そのもの、そして書かれるものであれ話されるものであれ、散文が偉大な文学的完成にいたり、自然に始まったものが芸術によって完成されたのは、人間の才能がこの発達に結集したのは、パテルクスの主張するところによればキケロの生涯の短い期間(六十三年)に限られ、ローマの弁論家のすべてはこの至上の弁論家を中心に一種の円環を形づくり、それは現代の我々であれば電気の環とでも呼べるもので、それぞれがキケロから電気を受け、そして<彼に>電気を与えるのである。セネカは、非常に控えめではあるが、同じことを違った言葉で繰り返している。Quicquid Romana facundia habuit quod insolenti Groecioe aut opponat aut proeferat circa Ciceronem effloruit.まことに率直で無私な賛辞である。というのも、彼以上高貴な思想家を異教世界はだしていないし、決まり文句に満ちた批評が最悪の時に素晴らしい文章をものしたからである。彼の法則を文字通りにとれば、二人のプリニウス、二人のセネカタキトゥスクインティリアヌスその他がローマの雄弁の母胎からは排除される。彼らは誰もキケロを見ることはできなかった。みな一世代以上離れている。そして、疑問の余地がないのは、彼らはそれぞれ演説に優れた弁論家である、書かれた文章においても完成された芸術家であり、より扱うのに困難な人工的スタイルの法則に従っていると自負できる十分な根拠をもっていた。

*1:(注1)思い起こさなければならないが、パテルクスは特殊な歴史家で、それ故、特殊な文章法に従っていた。非常に短い場所で多くの時代の概略を描こうとしているので、抽象の度合いが非常に高いものになっているのは避けがたいことである。これが修辞的、ほとんど詩的な表現形式を正当化する。というのも、作者がその結果を得ようとしたのかどうかはともかく、こうした書き方、飛躍が多くほとんど詩的推移といってよい、時間と行動との深い淵を驚くべき跳躍で越える書き方は情熱的な文章の結果である。かくして、彼は本能的に修辞的なのである。彼の修辞の本来の性格、その鋭い圧縮のため一見彼は曖昧に思える。それ故、我々は英語しか解さない読者のためには彼の言葉を少々敷衍し、意味を明らかにした。彼の楕円的な文を楽しむことのできるラテン語を解する読者のためには原文をいくつか加えてある。