一言一話 60

 

俳句 古池やの句

蛙が水にとびこむ音が芭蕉を禅の真理に目ざめさせたのだと言われるとき、つぎのように理解することができる(このような言いかたは、まだまだ西欧的すぎるのだが)。芭蕉が水音を耳にして発見したのは、もちろん「啓示」とか象徴への過敏とかいった主題ではなく、むしろ言語の終焉である。言語が終わる瞬間(大いなる修行ののちに得られる瞬間)というものがあり、反響のないこの断絶こそが、禅の真理と、俳句の短くて空虚なかたちとを作りあげている。ここでは「展開」はきびしく否定される。なぜなら重要なのは、重く、充満し、深遠で、神秘的な沈黙の状態のうえに言語を押しとどめることではないからである。また、神との対話(禅に神はないのだが)にひらかれたような虚心の状態ですらない。俳句でしめされるものは、言説においてであれ、言説の終焉においてであれ、展開してはならないのである。しめされるものには、反響も光沢もない。それはせいぜい、なんども繰りかえすことしかできない。それこそが、公案(詩から課題としてあたえられる逸話)を修行する参禅者が教えられることであった。すなわち、あたかも意味があるかのように公案を解明するのではなく、またその不条理を理解するのですらなく(不条理もまたひとつの意味だから)、「歯の抜け落ちるまで」その公案を噛みしめるということである。このように、禅のいっさいが――俳句はその文学部門に過ぎない――言語をとどめるための大いなる実践であるように思われる。

もちろん、よく言ったものだなあ、という感想。