一言一話 59

 

箱は、包装や遮断幕や仮面の役目をもち、なかに何かを隠し護りつつ指示している、ということで価値をもっている。すなわち、箱は代わりのものをあたえるのである――この表現を、両替をするという通貨的な意味と、だますという心理的な意味とに二重にとらえてほしい――。だが、箱のなかに入っているもの、箱が示しているもの自体は、非常に長いあいだ先延ばしにされる。箱の機能は、空間のなかで保護することではなく、時間のなかで延期してゆくことであるかのようだ。包装にこそ制作の(技巧の)仕事が注ぎこまれているのであるが、それゆえに品物のほうは存在感をうしなって、幻影になってゆく。包みから包みへとシニフィエは逃れ去り、ついにシニフィエをとらえたときには(包みのなかには、ささやかな何かがつねにあるのだから)、無意味で、つまらなくて、値打ちのないものであるように見える。シニフィアンの場である快楽はえられた。包みは空っぽなのではなく、空虚にされている。包みのなかにある品物や、記号のなかにあるシニフィエを発見することは、それを捨て去ることである。日本人が蟻のような熱心さで運んでいるのは、結局は空虚な記号なのだった。

私自身箱好きだが、箱のことばかり書いた花田清輝もいる。