一言一話 58

 

意味の問題の三つのレベル

これらの意味の問題を、すでに三つのレベルに位置づけることが可能であると思われる。まずは心理学的レベルである。この点に関してはもう一度ラカンの研究成果を参照しなければならない。(・・・)われわれのは、正常のものであろうと病的なものであろうと、精神分析の用語で去勢と呼ぶものによって定義づけられる空虚から、さまざまな象徴やシニフィアンをつくりあげて時を過ごしているらしい。この点が新しく重要である。というのも、まさにこれは、あらゆる充満の心理学、本質と心理学的本質の心理学と、いわば対立してしまうからである。これが、意味と空虚との関係についてのきわめて新しい考察となっている。

 二番目のレベル、それはジャック・デリダのテクストが現在探求しているような形而上学的レベルである。(・・・)これまでは、意味を止めるものが必要だと考えられていた。記号はシニフィアンシニフィエが混じり合ったものだが、いったんシニフィエに到達すると記号は停止してしまい、すべてが満たされ、充実し、正常になると考えられてきた。しかし今では、記号体系は決して停止することがなく、究極のいくつかのシニフィエやあるひとつの究極のシニフィエではこの体系を止めることは決してできない、ということがかいま見えてきた。もちろんこれは、非常に重大な結果をもたらす形而上学的な考察で、現実には、根本的に無神論的な形而上学的考察の引き鉄となる。なぜなら当然のことながら、神学体系は神を究極のシニフィエとしているからである。(・・・)

 最後はこうした問題の責任の三番目のレベルだが、それは、わたしが言及した文学的前衛によって提示されたもので、わたしなら政治的レベルと呼ぶものである。

いずれも意味が充満したものではないことで一貫している。