ケネス・バーク『動機の修辞学』 32

.. カーライルの「神秘」

 

 マルクスの階級の神秘化についての洞察は予期せぬ方向から、同じくらい執拗な十九世紀の作家によって強化されるのだが、彼は「神秘」を称賛的な用語として用い、その拒絶を美的なものに対する嫌悪と見なしている。我々が言っているのはカーライルと『衣装哲学』における「衣装の哲学」のことである。プロメテウス的なマルクスが傷ついた肝臓の観点から語っていることをカーライルは胃腸障害の観点で語っている。

 

 『ドイツ・イデオロギー』と『衣装哲学』を一緒に読むことは、それぞれが他方に投げかける光をどれだけ両者が共有することができるか、幾分意地の悪い喜びをもって見ることであるが、我々が最初に取り上げたいと思うのは、異なった<種類の>存在が交流するときに神秘が生じるという説である。神秘には<なじみのないもの>が存在する。しかし、よそよそしさというのはまた、ある意味で、交流を可能にするものだと考えられるに違いない。人間が、動物と表現しがたい仕方で互いに理解し合っていると感じる瞬間の動物の眼には神秘が存在する。

 

 宮廷恋愛の修辞を生みだした性的関係の神秘は、<生物学的に>疎隔された者同士の交流に基づいており、人間の労働の分化において、「男性に典型的なもの」と「女性に典型的なもの」とが区別されて生じた<社会的な>差異化によって大いに促進される。

 

 同様に、「神秘」の条件は、貴族と平民、延臣と王、指導者と民衆、富者と貧者、法廷における裁判官と被告、「優勢人種」と権利を剥奪されている「人種」や少数民族といった明白な社会的区別があるところでは<どこにでも>存在する。かくして、平社員と経営者との物語でさえ、どれほどリアリスティックに語られようと、神秘に訴えかけるものをもっており、というのも、平社員と経営者の社会的区別が、お互いにとらえがたい神秘を付し、単に二人の異なった人間だというのではなく、二つの異なった<階級>(あるいは「種類」)を代表しているからである。平社員と経営者は異なった社会の<原理>に同一化し、それに支配されている。

 

 こうした「神秘」はすべて、性的関係の場合と同じように、それぞれに応じた修辞を必要とする。というのも、階級間の関係は、求愛、暴行、誘惑、放蕩、売春、乱交、サディストの拷問やマゾヒストの虐待への誘いかけなどと同じようなものだからである。同様に、同じ性ではあるが対照的な社会的身分をもつ者の間の「宮廷風の」関係には強い同性愛的な傾向が存在する。この傾向は学生時代の若者に特徴的であり、性的経験がまだ曖昧で不確かな青年がガキ大将と取り巻きのような関係にあると、もし彼らが異なった社会的階級の出身であったり、あるいは、社会的差別の感覚が学校に行き渡っており、同じ階級同士でもなんらかの差別があるような場合には(お互いに、相手の眼に自分が階級から外れて写ることを恐れる)、互いを引きつける魅力は神秘的なものにまでなりうる。

 

 同性愛の言葉に翻訳された社会的関係の完璧な文学的表現はシェークスピアソネットに見いだされる。詩が「実際に同性愛のもの」かどうか決定するには材料が少なすぎるように思えるが。いまの我々にとって必要なのは、低い階級の人間が高い階級の人間を喜ばせる訴えかけをする状況を、同性愛を含意するような言葉で劇化することに、文学の熟達者が宮廷風関係の主題を伝える最上の形象を見いだすかどうか、ということである。ワイルドの性的な苦境だけを見て、社会的栄達に関わる動機を無視すれば、貴重でつむじ曲がりな『社会主義下の人間の魂』の著者を特徴づける形象の僅かな意味しかあらわにならないだろう。更に、現代の最良の英国作家に見られる神秘主義と同性愛との強い混合(左翼的な傾向を示すものもある)は両親に対する「無意識の」固着を示すだけでなく、親という<代用>の形象であらわされる「自分より上の」階級の原理への「無意識の」固着として検討することができる。それ故、畏怖、罪、近親相姦、親殺しなどのほのめかしは、多くは社会的階級間の交流に対する内気さからきていると言える。

 

 社会的交流に対する内気さに言及することで思い起こされるのは、衒学的なヘンリー・ジェイムズの作品の鍵となる語を試験的に分析したときに見いだした「交流」という曖昧な言葉に対する彼の特別な嗜好である。かくも意識的な作家の場合、この言葉の性的な意味合いを完全に見過ごしていると仮定するのはためらわれる。だが、かくも明晰で、綿密な作家が単に穏やかなポルノグラフィ的意味合いを目ざすと仮定することもまたためらわれるのである。しかし、階級間の宮廷風関係において性的、同性愛的意味合いが見られるという我々の考えは、これまで見過ごされてきた性質である。

 

 特にそれが十全な意味合いを示しているのは『ねじの回転』で、そこでは、プロットに含まれる曖昧で病的な性的要素が、主人の子供たちと召使いたち(女家庭教師とその不吉な前任者)との曖昧な関係を含んでおり、子供たちの所有をめぐって戦いが行なわれる。戦いは「超自然的で」(作者の言葉)悪の要素が混じり合っている(幽霊話の約束事によって、作者は、<自然に反する>ことを「超自然」として、「自然に反する」という言葉も使いながら扱うことができる)。子供たちの所有をめぐる女家庭教師とその前任者の幽霊との戦いは、表面的に性的欲望があらわれているかどうかで判断すると、性的ではない。しかし、曖昧な性的要素があり、性的現象があらゆる点で<神秘化>されている——そして、この神秘化はある階級が他の階級の魂を所有しようとする戦いとしてみると大部分が説明されうる。他の階級が子供たちによって象徴されている事実は、もちろん、著者の生活におけるこの物語の原型が子供時代の「神秘」に由来し、社会的でも性的でもなく、むしろ個人的で家庭的なものとして描かれる可能性もあったことを示している。(というのも、誰の経験の根にも、年齢によって分類される感覚があるからである。両親と子供は、成人と子供との性質の違いとして一般化される——この分類は性的なことに「先行」し、祖先崇拝の神秘に通じ、祖先崇拝は社会的区別化の強い感情に通じている。)

 

 性的類推は、通常「白人優位」主義を伴う白人の幻想や不安に十分明らかにあらわれている。黒人の側からは、リチャード・ライトの『アメリカの息子』のプロットが社会的要素と性的要素とが絡み合う緊張を表現している(黒人に力を貸していた富裕な白人の少女が性行を暗示するような文脈で殺され、ビガーの社会的重荷を身代わりとなって担うことになる)。

 

 貴族と農民との差別がはっきりしていて、上流階級やその代理人が農民を打ち据えるのが普通のことであった帝政ロシアにいたドストエフスキーは、多くの神秘主義を描いているが、そのなかにはいま我々が考えているような多義的な連想が認められる。悲惨なるものへの熱中があり、社会的に惨めな身分にある農民が馬を叩いて死に至らしめる奇妙で神秘的な夢(『罪と罰』にある)では、苦しみをマゾヒスティックに崇拝するしかない自分と同じしるしをもち、より惨めな生物が打ちのめされる——ここには、社会的、性的、個人的、家族的な関係の、我々が決して汲み尽くせないような無限の可能性に満ちた迷宮がある。動機の家族的体制(「階級」としての大人と子供の関係に根ざしている)は、社会的区別の側面においては「愛する父親」に対する畏敬の念にあたり、その性的含意は、ドストエフスキーの作品を通じて存在する小児愛にあらわれている。聖なる娼婦に対する神秘的な崇敬は階層秩序のまさに本質を象徴しているように思える。この人物像は母性とエロティックな女性とを結びつける(彼女は本質においては処女的だが、偶然の事情によって社会的身分は娼婦なのである)。この二重性において、彼女は王であるキリストとして高められ、十字架にかけられたキリストとして卑しめられる。(ベンガルには、「殴りつけるのが主人で、一つも殴れない方が犬だ」ということわざがある。)

 

 カフカの小説は風変わりで、官僚制の神秘とそれに伴う修辞を深く究明している。実際、もし我々が、カーライルがマルクスに対してしたのと同じように、思わぬ方向からカフカに光をあてるものを提示するとすれば、アレオパゴスのディオニュシオス 《St. Paul によって改宗した 1 世紀 Athens の人 (Acts 17: 34); 500 年ごろ彼の作と称する新プラトン主義的著作が書かれ, その思想はスコラ神学に多大の影響を与えた》の天上の位階と教会の位階についての著作を選ぶだろう。「位階」は古くからある「官僚制」を示す称賛的な言葉で、それぞれの地位にある者は、上に対しては敬意を払った修辞を、下に対しては寛大で謙遜した修辞を用い、つまりはある種宮廷風の修辞が使われているのだが、すべての段階には最上段階の精神が吹き込まれており、その段階こそは位階的な思考の本質を集約していて、「イデオロギー的にいって」、位階の「原因」と解釈することができる。カフカでは、階層の神秘があらゆるところに行き渡っており、あらゆる方向に力を及ぼす究極的な官僚は、曖昧な非難めいた筆致で書かれるのだが、常に神秘的で神と街のボスとが混じり合ったような具合である。

 

 カーライルに戻り、社会体制における「神秘化」の要素を扱う特殊なやり方を見てみよう。「ほとんどの人間が敬意を払うのは衣装ではないか」とカーライルは、あるいは作者を反語的にあらわしていると考えられるトイフェルスドレックは「古い衣装」についての章で尋ねる。同じ章で彼は「古い衣装に敬意を払わないような者のことは信用するな」と言っている。しかし、カーライルは衣服産業についての本を書いているのではない。尊崇を要求するような象徴に関する本を書いているのであり、というのも、最終的な分析においては、自然のイメージとは神の象徴だからである。彼は衣装を象徴一般の代用物としている。彼の本において衣装とはなんの象徴なのかを調べてみると、カーライルがいかにマルクスと似ているかが見いだされる。両者ともに、労働が分化した世界で生じる位階について語っている。マルクスは現代の労働の分化は、衣装の生産が本格的になったことで始まったと言う。カーライルは同じ主題を比喩的に、道具こそ衣装なのだという。

 

 「衣装における世界」の章で、彼はモンテスキューが法の精神について書いたように「衣装の精神」について書くことを提案し、「衣装の最初の目的は・・・暖かさや体裁のためではなく、装飾である」という。というのも、「粗野な人間の最初の精神的欲求は装飾である」からである。次に彼は金銭について、いかにして金銭が物々交換を売買に変えたるかについて語っている。

 

六ペンスもつ者は(六ペンスの限りにおいて)あらゆる人間に君臨する主権者である。料理人には自分を養うよう、哲学者には教えることを、王には自分に護衛をつけることを命じるのだが——六ペンスの限りにおいて——衣装もまた同様で、愚か者の装飾にへの愛着から始まったものがあらゆるものに変わるのである。安全や心地よい暖かさはすぐに得られたが、それがなんであろう。人食い人種の胸には未知のものだった羞恥、神々しい羞恥(Schaam、しとやかさ)が衣服の下から神秘的に生じてきたのである。人間のなかに木立に囲まれた神秘的な神殿がある。衣装は我々に<人格、差異、社会的政治組織>を与える。衣装が我々のうちに人間をつくりだす。衣装が障壁になる恐れもある。[強調は引用者。]

 

 

そして、彼は突然に話を変え、人間は「道具を使用する動物」だと言い、「衣装がその真理の唯一の例」だと結論する。この章は労働分化の究極的な例に言及することで終わっている。現代の移送手段(当時においては「蒸気による乗り物」)と政治の代議制度である(「英国の下院」の面々は「我々のために精を出して働き、傷を負い、飢え、悲しみ、罪を負う」)。他の場所では「衣装の道徳的、政治的、宗教的でさえある影響」が語られており、というのも、「人間の世俗的な関心はすべて衣装によって留め金とボタンがかけられ、まとめられて」おり、「社会は衣装に基づき、・・・無限に広がる衣装のなかを航行している」からである。我々の目的に大きく資するのは、適切にも人間は「権威を身にまとう」と彼が言っていることである。衣装がなければ、「僅かな礼儀も、政治組織も、治安さえも存在できない」。そして、「衣装がなければ、どうやって我々は身体組織の主要器官、魂の座、真の松果体、つまり、嚢状部をもつことができるだろうか」。

 

 カーライルの考えにはあと二つの主要な段階がある。第一に、パウロの教義の適用があって、身体は精神の衣装で、自然は不可視な精神の眼に見える衣服であり、「想像されたもの」は「天上にある眼に見えず、『過剰な光に満ちた想像することもできない形のない暗黒』の衣装」であって、というのも、自然は想像力が「比喩という材料」を使って織り上げる「肉の衣服」であり、空想(つまり、想像力)とは「神々しい機関」なのである。

 

 この教義によって彼は明晰さと曖昧さ、言葉と沈黙、公共性と秘密が共存する究極的な神秘、謎としての象徴に導かれる。それは、象徴されたものを同時に表現しつつ隠すのである。

 

隠蔽の計り知れない影響を受け、更に広い範囲に及んでいるのが<象徴>の驚くべき働きである。象徴では隠蔽と同時に暴露がある。それ故、そこでは沈黙と言葉が同時に働き、二重の意味合いをもつことになる。

 

 

こうして、「畏敬の念のない思考」、「驚異に対する公然たる敵」、「神秘も神秘主義ももたない」者たちを攻撃し、深遠なヴィジョンに従って、純粋な社会的崇敬について語ることが許される。

 

人間の衣装を見通し、そのなかの人間自身を見ることのできる者、恐ろしい君主に多かれ少なかれ無力な消化器官を見て取ることのできる者は幸福である。しかしそこにはまた不可解で敬うべき神秘があり、それはもっとも卑しい浮浪者の眼にも映るものである。

 

 

人間の「神秘的な自己」のまわり、

 

ぼろ布の下には、肉体(あるいは感覚)という衣服が、天上の糸で織られている。それによって自らを同類にあらわし、彼らとともに結合と分裂を経験する。

 

 

 

 しかし、このように彼が「母なる観念、裸の状態の社会」に到着することで旅路を完成するかに思われるにもかかわらず、我々は「王の外套の下からのぞく衣装は象徴である」というような表現に見られる無意識の判断を決して見過ごしてはならない。実際、彼は次のように注意を促している。

 

多分、普通に二本足で歩いている者なら、どんな国に住むどんな世代の者だろうと、金をまとった王子であれ質素な上着の農夫であれ、服装と自己とが一つのものではなくばらばらであったことが生涯に幾度かはあるだろう。つまり、<彼は>衣服がなく、買うか盗みでもしないかぎり裸なのである・・・

 

 

 

しかし、すべての人間を結びつける神秘の崇敬という彼の教義は、歴史上のことに関する限り、世界の神的な原理を代表する英雄崇拝という形をとることになる。(これは「同一化」の原理である。)かくして、『英雄と英雄崇拝』で、彼は王を「偉人のなかでも最も重要なものと見なしている」。というのも、

 

彼は、実際、英雄の多様な特徴を<すべて>要約した存在である。ひとりの人間のなかに、世俗的精神的威厳を備えた司祭と教師とがいるという我々の想像が具体化されたもので、我々に<命令をくだし>、常に実際的な教えを授け、いつでも我々がなにを<すべきか>伝えてくれる。

 

 

 多分、すべての問題は「裸体主義」の章に集約されているのだろうが、そこで彼は階級という「衣装」の下に裸の普遍的な人間を見るのだが、その一方で、取り去ったはずの位階による尊崇を復活している。カーライルは裁判官を「鮮紅色」に、裁判官によって死刑を宣告された囚人を「きめの粗い貧弱な青」にまとめる。カーライルは次のように考える。

 

どうなっているのだろうか。<あるべきようにしか振る舞えない>のはどういうわけだろうか。赤は青を物理的に拘束しているのでも、<捕まえて>いるのでもなく、少しも彼と<接触>していない。司法長官、総督代理、死刑執行人、執達吏が協力して赤に命令をくだしたり、赤のほうが彼らをあちらこちらに引き回したりできるわけではない。それぞれが別々の立場に立っている。にもかかわらず、宣告されたようにことはなされる。発せられた言葉はすべて行動になる。ロープと絞首台は自分の仕事をする。

 読者も考えてみてほしいが、私には二つの理由があると思える。第一に、<人間は精神であり>、眼には見ることができないが、<あらゆる人間>と結びついている。第二に、<人間は衣装を着ており>、衣装はその事実の眼に見える象徴である。死刑執行を宣言する赤は、馬の毛のかつらを着け、リスの毛皮やフラシ天のガウンをまとってなどいないのではないか。それでも、誰もが裁判官だと知っているではないか。考えれば考えるほど驚きが増すのだが、社会というのは、衣装に根づいているのである。

 

 

カーライルは続けて、「もったいぶった儀式」、戴冠式、昼の接見、夜の接見、「陰鬱な雰囲気で」、「任命を受ける」侯爵、大公、閣下、主教、提督などの「劇の中心である衣装が消え去って」しまったらどうなるだろうと想像している。うまい考え方ではある。<しかし、この不敬な空想そのものに、異なった職務の象徴としての衣装に潜む神秘が再びあらわになっている。>

 

 要約すると、彼の理論は次のような段階を経る。

 

 1.衣装は社会的地位を象徴し、人間の崇敬を誘いだすが、人間の真の本性をあらわしてはいない。

 

 2.崇敬があるにしても、もっと深いところを目ざすべきである。社会的身分の虚飾(「衣装」)の下に、全自然と全歴史はより深い実在の象徴であることが見て取れる。ここでは、「衣装」(可視的な世界の「衣服」)によって神秘があらわされていると同時に隠されている。それに我々の崇敬が向けられているのである。

 

 3.しかし、世界の「衣装」がより深い神的秩序を象徴しているなら、それをあらわしている限りにおいて我々は衣装を崇敬しなけらばならない。究極的な現実においては、あらゆる人間は結びついている——この究極的な結びつきによって、異なった階級の人間が互いに交流できる。それゆえ、この三段階目において、二段階目において撤回した「衣装」(つまり、自然的社会的秩序の「衣服」)に対する崇敬が異なった形で復活している。特に、支配する者と支配される者という主要な階層わけと、それに伴う崇敬が復活される(階層を少なくし、縮小再生産できる考え方であろう)。我々は真の王(「英雄」)を崇敬すべきであり、というのも、彼は神に与えられた権利によって支配するからである。

 

 議論の道筋がまだつかめないというなら、別の言い方をしてみよう。実際、多分、我々の論点は、議論を故意に逃れるにまかせ、「同一化」の観点から「総計されるもの」を見ることでもっとも明らかにすることができるだろう。集約して得られるのはこうである。様々な特性に加え、<神秘>は<階級の差異化>に等しい。

 

 我々は神秘を破壊しようというのでも、正体を暴こうというのでも、異議を唱えようというのでも、「留保をつけて是認」しようというのでもない。とりわけ、神秘をマルクスのように非難をこめて考えるか、カーライルのように称賛をこめて考えるか決めようとしているのではない。というのも、ここでは、崇敬や神秘(つまり「神秘化」)が存在すべきか、すべきでないか決める必要はないからである。

 

 多分、階級の差異が廃棄されれば(ソビエト・ロシアで、カーライルの言うような独裁者と人民との宮廷風の関係が廃棄されるようには思えないのだが)、神秘のはっきりとした影響は存在しないこととなろう。あるいは、恐らく、社会的不平等の霧の背後に、いまは隠れている本当の神秘が姿をあらわそう。多分、特権階級が存在しないなら、封建時代の人間が、人間と神とを臣下と君主の隷属関係として想像したようなありふれた形で、想像力が神的な威厳を考えることなどなかっただろう(神学的精神をもった犬がずんぐりむっくりの主人を神と考えるように)。多分、職業的栄達に対する崇敬がないなら、文学的神秘家に現実が神秘的に見られることなど全くないだろう。多分そうした害がなければ、より差し迫った不思議があらわされることになろう。

 

 恐らく神秘は存在しなくなるだろう。恐らくまったく存在しなくなるに違いない。だが、いまの目的には関係ない。修辞に関する限り、我々の論点はこうである。マルクスとカーライルを同時に取り上げると、社会的不平等に「神秘化の条件」が存在することが示される。この条件は、「神的」ではない行為者や働きに対して「神を恐れるような」態度を引き出すことができる。二つの教えを合わせると、象徴の場合と同じように、「意識」のある側面をあらわにすると同時に隠しもする表現への警戒を目ざめさせてくれる (辞書が教えてくれるところによると、「神秘」は<muein>に関連し、第二音節にアクセントを置くと「神秘の伝授」を意味し、第一音節にアクセントを置くと「目を閉ざす」ことを意味する)。もし『衣装哲学』と『ドイツ・イデオロギー』を合わせて読み、どちらに対しても先入観で眼を曇らされることがないなら、カーライルの謎めいた象徴にもマルクスの示した神秘化と階級との関係と同じくらい寄与するところがあろう。これは修辞学にとっては非常に重要な考察であり、いまだ調査されないままである宮廷作法に修辞的分析を施す。そして、宮廷作法は、いかに回りくどいものではあっても、説得の一形式なのである。