ケネス・バーク『動機の修辞学』 12

.. 同一化と「三位一体」

 

 Aは、同僚Bと同じではない。だが、彼らの関心が重なる限りにおいて、AはBと<同一化>する。あるいは、関心が重なっていないときでも、自分でそうだと思い、あるいはそう信じるよう説得されるならBに<同一化する>かもしれない。

 

 ここに本質というものの曖昧さがある。Bと同一化しているAは自分以外の人物と「本質的に一つのもの」となっている。だが、同時に彼は独自なものであり、個人的な動機をもつ。かくして、彼は結びついていながら離れていて、他人と異なった本質でありながら共通の本質ももっている。

 

 両親と、その「祖先」と共通のものをもっていながら、子孫は別個のものである。この意味において、子供は親と一つのものでありながらそうではないというのはなんら深遠なところはない。同様に、二人の人間は、彼らが共通にもつ原理において同一化でき、この「同一化」は互いの相違を否定しない。

 

 AがBと同一化するとは、AがBと「本質を同じくする」ことである。従って、『動機の文法』は「本質」を鍵語として組み立てられたが、本書はその最も近い相当物を説得や諫止、コミュニケーションや論争に選んでいる。そして、第三巻となる『動機の象徴』では、<同一化>を由来や祖型として、他のすべての関係がそこに還元でき、そこからすべてが派生し生まれ出るような共通精神、「第一のもの」として構成されるべきだろう。そこでは、事物の<同一性>は、それ自体において自律的な唯一無比のものであり、独自の構造をもって画されている単位となろう。

 

 しかしながら、「本質」は難解な哲学用語であって、困惑や難問の長い歴史に取り囲まれている。それは、人間の体系的な用語のなかである働きをしていたが、あまりに逆説的なので、思想家たちは最後には廃棄しようとした——そして、近年では、実際、動機についての用語法のなかからそれを廃棄するよう説得されてしまう者もいる。彼らは<用語>こそ廃棄したが、その語の<働き>を廃棄できたか、あるいはそれを<望んだ>かどうかさえ疑わしい。<本質共有>の教義は、はっきりと言いあらわすかどうかはともかく、生のありかたにおいて必要なものだろう。というのも、本質は、古来の哲学においては<行為>だった。生のあり方とは<ともに行為する>ことである。共に行為するは、人間が、<本質を同じくする>共通の感覚、考え、イメージ、観念、態度をもつことである。

 

 『文法』では本質の普遍的な逆説を扱った。すべての考えに共通する配置や定義の源を考えた。『象徴』は、唯一無二の個的なもの、個別に構成された行為や形式を扱うものとなろう。こうした唯一無二の「構成」はそれだけで扱うことができ、『象徴』はまず第一にそれらが単独たり得ること、それぞれの独自の言説の世界について考えるべきだろう(他の個的なものと、共通の原則、同じあるいは似た性質で結びつき、本質を同じくすることがあるにもかかわらず、である)。

 

 『修辞学』は「党派」によって分類する可能性を扱う。個人が互いに争うあり方、多かれ少なかれ争っている者同士がグループを同じくするそのあり方を考える。

 

 問題になっているのが「同一化」なのに、なぜ「争い」なのかと問われるかもしれない。理由は、「同一化」から始めることは、回り道ではあるが、そこに含まれる<分離>に向き合うことと同じだからである。最終的に、無数の共同作業がただ一つの破滅的な行為の準備に終わるという分離や抗争の最も悲劇的なイロニーがもたらされることもある。この共同作業の究極的<疾病>とは<戦争>である。(戦争をよりよく理解するためには、それを極点にまで達した争いと考えるのではなく、親交の疾病や倒錯と考えたほうがいい。現代の戦争に特徴的なのは、一つの破壊行為に数多くの建設的行為が必要とされることにある。最終的な爆発には、共同で方向づけられ連動する巨大なネットワークの働きがなけらばならない。)

 

 同一化は、分裂があるからこそ真剣に求められる。同一化は分裂の補償物である。もし人間が離ればなれでないなら、統一を訴える修辞家など必要ではないだろう。もし人間が全面的に、真に一つになっているなら、まさに完全なコミュニケーションが人間の本質であろう。それは、現在のように、物質的条件として具体化される部分もあるが、その同じ条件が欲求不満の種にもなるような理想ではなくなろうだろう。むしろ、神学者が理想的な原型だと言う天使や「使徒」のコミュニケーションのように自然で、自発的で、しかも全体的なものとなろう。

 

 『文法』はすべての人間に共通する逆説、言語的配置の普遍的な源について考えている限り平和だった。『象徴』では個的な実質、実在、本質的行為がその独自性において、つまり争いの届かぬ場で考えられるときには平和であろう。個的な宇宙がそれだけで競い合うことはないからである。それぞれは単に<存在し>、言説の自己充足的な領域にいる。そして、『象徴』は、それらが共通の本質的な意味に参加し、同一化を完成するために協力し、関連し合うと考えるのである。個物は、現実には他の個物と競いあう。しかし、象徴の支配のもとでは、個的なものは特殊な性質を主張する自律的な単位として扱われる。それぞれが互いに<協力して>変わるなら「平和」である。しかし、個的なものが他の個物やグループとの争いに巻き込まれる限り、その研究は『修辞学』のもとに収められることになろう。修辞的に考えれば、神経症的葛藤の犠牲者は、議会の論争で引き裂かれている。内部にいるヒトラー的存在に悩まされている。(ヒトラーは、露骨に服従か沈黙かの選択を国民に強いた後でも、個人的に熟考する際には絶え間ない論争を繰り広げていたという。)修辞的には、神経症者が自己の振る舞いを統制しようとする試みは、分裂した自己の対立する党派によって混乱させられる。だが、象徴的に考えれば、その人物は、調節し合う関係として同一性をまとめ上げているという意味で、厳密に言えば「平和」のうちにある。というのも、敵対関係や激しいやりとりでさえ、ある全体的な形を作りだすために「協調している」と言えるからである。

 

 『修辞学』は、争奪、市場での口論、人間的で卑俗な混乱や騒ぎ、ギブ・アンド・テイク、圧力と反圧力とせめぎ合い、用語論争、所有の責任、神経戦などを通じて我々を戦争に導くに違いない。平和に満ちた瞬間もある。終りのない争いが自らを越えてしまう瞬間もある。独自の道を辿り、党派性から普遍性に移動することも可能である。しかし、その理想的な成就は、有機体の表現、物質的具体化の必要条件である争いにしばしば悩まされる。普遍性自体が党派の武器に変わる。「同一化」という概念をそのあらゆる曲折に至るまで、その反語的な対応物である分離まで含めて、鋭く詳細に調査する必要がなくなるからである。修辞学はバベル崩壊後の状態に関わっている。その「知識の社会学」は、悪意や嘘といった哀れをそそる領域にまで及ぶこともあるに違いない。