ケネス・バーク『動機の修辞学』 19

.. 修辞の「行き先」(個人の魂)

 

 我々の整理によると、唯一無二の個人は象徴の範囲に収まる。しかし、だからといって、いわゆる「個人心理学」にもそれが当てはまると考えるべきではない。特に、フロイト神経症患者に対する関心には、修辞的な要素が強く存在する。実際、道徳的検閲による禁止をかいくぐって夢という表現に達するというフロイトの考えほど根本的に修辞的なものがあり得ようか。これは政治的、宗教的検閲のもとで文学が用いる修辞の正確な類似物ではないだろうか。<自我>とイドが向かい合う<超自我>は、演説者が向き合う見知らぬ聴衆のようなもので、説得に必要な一歩としておだて上げなければならない。フロイトによる精神とは、議会のようなもので、敵対する党派の主張を考慮に入れながら様々な仕方で相対立する利害が表現される。

 

 フロイトによる精神に修辞的要素が強くあらわれていることのもっともよい証拠は、『機知とその無意識との関係』における分析である。特に、フロイトが考慮している聞き手、あるいは「第三者」の役割で、話し手は彼との関係を確立し、その立場から機知の相手に向けて共同作業を行う。ここにもっとも純粋な修辞のパターンがある。話し手と聞き手は、別の人物を犠牲にする党派的なジョークにおいて仲間となる。もしこうした多様な動機が「内在化」され、三つの立場すべてに関わることになれば、多くの声をもった複雑な個人が得られることになる。これは諸原理が互いに修正し合う協奏曲として象徴の題目の下に扱われるものだが、同じように修辞学の観点から見ることもでき、個人が集まって論争する議会のように、恐れと希望、友好と敵対、健康と病いが一緒になり、いったん死ぬことで過去の状況が新たな状況に生まれ変わる再生があり、弁証法的な発達、絶え間なく変容する連続がある。

 

 かくして、回り道にではあるが、我々は修辞のもう一つの側面に行き着いた。説得が聞き手を含み、それゆえ、誰かに<宛てられている>ということである。秘密裡にしろ、ある考えやイメージを育て、それによってなんらかの結果を希望する限り、その人物は聞き手をもっていると言える。ミードが言う「『私に』宛てられた『私』」である。この点において、彼は内部よりは外にいる聞き手に影響を与えるために彼らが喜ぶような形象を用いるかのようであり、修辞的である。伝統的な修辞学では、外的な聴衆との関係が強調されている。例えば、アリストテレスの『修辞学』では、そうした基本的な意味での聴衆への訴えかけが扱われている。そこには、語り手が聴衆のなかで自分の目的に好意的に共鳴してくれる者と、反対の目的に共鳴する者を選り分けられるという特有の信念が述べられている。そして、聴衆が好意をもち、語り手が同一化するよう努力すべき特徴があげられている。しかし、現代的な「キリスト教以後」の修辞では、聴衆への訴えかけのもと、道徳的、あるいはまじない的な目的のために密かに自己に宛てられた観念やイメージが含まれる可能性を考慮に入れねばならない。というのも、自分で自分に同情的な心理的逃避の状態にあるとき、あなたは、ある点においては非常に手ぬるい、ある点においては非常に厳格な自分の聴衆になるからである(どんな挫折となろうと、自負を養うというより高度な動機の名のもとで自らに苦難を課す神経症者のように、過酷に見えることも、より詳しく調べてみると、おもねりであることがしばしば見受けられる)。

 

 こうした考察は、<道徳化>の過程として考えられるあらゆる<社会化>に修辞的要素があることを我々に警告する。社会と協調するコミュニケーションの規範に合わせようとつとめる個人は、同一化の修辞にも関わっている。自らを説得するため、彼は多様なイメージや観念の形成に頼らねばならない。教育(「教化」)は外側からそうした圧力を加える。彼は内側からその過程を完成させる。様々な修辞家が語りかけるように(聴衆でもある)自分自身に語りかけなければ、説得は完成しない。外側からの声は、内側の声の言葉で語りかけられるときにのみ効果的なのである。

 

 マダガスカルのタナラ族の間では、<トロンバ>(「神経的な発作で、踊りたいという止みがたい衝動がある」)にかかりやすいのは部族でもっとも人気のない者だと言われている。こうした発作は、かかった人間を「すべての関心の中心」に据えるための仕掛けなのだと言われる。そして、後で、病人の家族のなかでもっとも富があり力のある人物が金を払うのだが、それは「その個人の自我が十分満たされ、次のトロンバの発作が起きるまではうまく暮らしていける」からである。つまり、「多くのヒステリー発作のように、トロンバにも観衆が必要とされる。」

 

 引用はA・カーディナーの『個人と社会』(New York:Columbi University Press)からである。そこでは、我々の論議に「ヒステリーの修辞」も加えられることが示唆されている。というのも、ここでも誰かに<宛てられた>表現があるからである——根本的なイロニーは、緊張性の発作が通常の言語的コミュニケーションの届かない全くの機械的行為に陥っており、論理を超えたあらゆる訴えかけを終わらせるような訴えかけであるにもかかわらず、本来的にはコミュニケーションであり、誰かに宛てられたものだということにある。