ケネス・バーク『動機の修辞学』 27
.. 想像力
恐らく、一種の<知>としての想像力の理論は、詩的思考と科学的思考とが重なり合う領域において最上の働きをするので、説得手段としての「想像力」への関心は近代になるまで十分な開花を見るに至らなかった。また、古典的修辞学におけるそうした関心は、「実現化」(energeia目的のある運動をあらわすような言葉を使うこと)や「生命感」(enargeia)といった言葉でしばしば扱われた。アリストテレスの分類によれば、「実現化」は「対照」と「隠喩」とともに演説におけるもっとも効果的な三つの道具のうちの一つなのだが、想像力の観点からなされる現代の理論では扱われないようなものが多く含まれている。
アリストテレスの図式では、そして現代の科学的自然主義の入口にいるスピノザのような哲学者でさえ、「想像力」は心的働きのなかで低い位置しか与えられておらず、動物的感覚のすぐ隣で、動物に可能な最上の能力ということになっている。この位階に従えば、人間においては感覚と知性との中間に位置することになる。(1)
この用語法では、感覚は感覚される事物の現存を必要とするが、想像力は想像される事物の現存を必要とはしないことになる。それ故、想像力がイメージを必要とすることは、その始まりに感覚があることを証明するが、感覚とは独立にイメージを扱うことができるのである(夢や意志的な想像のように)。
こうした考察によって、想像力においては、感覚の対象を整理したり、ばらばらにして、それ自体は感覚的経験によるのではない新たな結びつき(ケンタウルスのような)が想像されるという可能性も開ける。こうして「創造的」になることができ、神秘家の言語のように、比喩を超越する直感をイメージで表現し、永遠に感覚には閉じられているなにかを幻視することにさえなる。コールリッジが「空想」と「想像力」を「非同義語化した」のは、部分的にはその二つの意味を分けることで、「空想」(ギリシャ語のphantasiaからきている)には感覚経験の単なる「機械的な」再結合を、「想像力」(ギリシャ語の翻訳として通常使われていたラテン語のimaginatioからきている)には創造的で超感覚的な意味をもたせようとしたからである。
ロンギヌスが語っているところでは、彼の時代に想像力(生き生きとしたenargeia空想phantasia)が「使われるようになり、熱狂と強い感情に鼓舞された文は、描いたものをそこに見るように、聴衆の眼の前に活き活きともたらすのである」。「文字どおり信じるには神秘的な誇張が強すぎる」<詩>の例を挙げたあとで、彼は<修辞>における「想像力の最良の使用法」とは、語り手が主張することを「現実であり真実である」と聴衆に信じさせることにあると言っている。彼はまた、想像力が単なる議論を越えたところで説得をする、というデモステネスの一節を引用している。(「議論と結びつくと、想像力は聴衆を信じさせるばかりでなく、決定的に彼らを支配する。」)彼は最終的に、想像力と非凡な才能(megalophrosyne気高さ)、そして模倣を等しいものとする。
恐らくこれがギリシャ・ローマの文学を通じて「想像力」についての最大の貢献である(意味深いことに、この作品は古代の作家たちには知られておらず、言及されているような箇所もないのだが、近代のロマン主義の潮流のなかで始めて見直されるようになった)。彼は詩の目的を「驚きで打ちすえる」ことと考え、文学批評に「脱我」について語ることを導入したのだが、修辞における想像力には異なった役割をあてていて、それは、虚構という条件のなかで、他の場合であったならまったく信じられないことの「現実性」を信じさせるというよりは、いかにも疑わしく思える現実を現実だと信じさせることにある。(ロズモンド・テューブはマッツォーニのこれに関連した言葉を引用している。「信じられるものを信じられるものとして描くのは修辞の主題であり、信じがたいことを信じられるように描くのが詩の主題である。」)
ピコ・デラ・ミランドラの『想像力について』を見ると(ラテン語のテキストにハリー・カプランによる序文と、英語への翻訳と注がついたものがある。脚注p.36)、中世の作家たちはしばしば生産的な想像力と再生産的な想像力とを区別しており、その強調するところは違うけれども、コールリッジの体系的な分離の先触れとなっている。しかし、ピコはこの「非同義語化」を共有してはいなかった(彼の小論文は十五世紀の終盤に書かれた)。アリストテレスは『心理学』の第三巻で言っている。「心にとって、イメージは知覚の対象のように利用できる。よいものと判断すれば追いかける。悪いものと判断すれば避ける。そういうわけで、心は決してイメージなしに考えることはない。」彼の考え方によれば、想像力と理性は双方とも運動を起こせるが、想像力によって始められた運動は、理性によって支配されない限り危険である(宗教によって導かれるべきときもあろう)。同じようにピコは、アヴィケンナの空想と想像の区別に反対して書いている。人間は現実のあるいは明らかな善によって行動に動かされる(ad operandum)。そして、欲望は知覚に由来する。知覚は諸感覚に由来する(それはイメージを必要とする)。理性を用いたり理解しようとする者もイメージをよく見なければならないのであるから、「我々の行動の多くはイメージに由来していることを認めねばならない」(actiones nostras de eius potestatis ingenio plurimum dependere)。
ピコの図式では、人間は想像力を動物たちと分かちもっているが、人間の想像力は動物よりも遠くまで及び、動物にはほとんど感じられない修飾、野心、名誉に関する動機が含まれている。子供たちはほとんど動物と同じような想像力で動機づけられている。その知性の弱さゆえに、地獄の責め苦と天国の喜びを詳細に想像させることで美徳に導ける。
こうした考え方における修辞の意味については、フランシス・ベーコンの『学問の進歩』が明らかにしている。「修辞学の義務と任務は、よりよく意志を働かせるために想像力に理性を供給することにある。」ベーコンに従えば、修辞学は「理性を圧迫することなく、助けることで想像力を満たす」べきである。「修辞学の任務とは、すぐに見て取れるような美徳と善の絵姿をつくることにある。」あるいは、より完全な発言ではこうである。「論理が理解の助けとなるように、修辞は想像力の助けとなる。修辞学の義務と任務は、・・・欲求や意志を奮い立たせるために、想像力に理性の命じるところをもたらし薦めること以外にはない。」
ベーコンによれば、意志そのものは宗教、一般的意見、不安によって変わるものであり、明らかに想像力はそれらを補強することができる。我々の引用した箇所で、彼はその力の善用を考えているのだが、想像力が偏見や間違った不安、宗教からの乖離を補強するという否定的な可能性を強調すれば、不信を招くものとなる。アウグスティヌスのように、ここでの彼は説法する立場から、行動へ誘導する修辞を考えており、想像力をこの目的のための説得の手段と判断している。
哀れみを誘おうとする場合、修辞家は聴衆に被っている苦難や不正の実際の証しとなるものを彷彿させられればもっとも効果を上げる、とアリストテレスは言った。かくして、「想像力」が動機づけの価値を持つのに応じて、古典的な理論が<パトス>や<エトス>へ訴える(「感情」と「人間性」や人柄への訴えかけ)説得として扱った多くの例が想像力への訴えかけとして語られるようになってくる。ロマン主義の文学理論では、想像力への詩的な訴えかけは、情念や感情への訴えかけがしばしばそうであるように、理性への論理的な訴えかけとはまさに反対だと考えられてさえいる。そこではまた、想像力が二元的にも考えられていて、美的な領域においては理性より高次なものとしてその使用が支持されるのだが、実務的な領域からは(感情的であるがゆえに)完全に取り去られることが要求されるのである(同じ人間が詩的な審美主義と科学的実証主義の双方に賛成できる二元性である)。
まとめると、今日では、情念、感情、行動、雰囲気や人柄でさえ、その表象は「イメージ」のもとに扱われがちであり、そこにあからさまであるか隠然とであるかはともかく「想像力」も含まれる。しばしば「想像力」は「劇的動機」とは異なる「叙情的動機」に集約されるように思える(双方にまたがるものとして捉えられる場合もある)。それは寄せ集めであり、見て触れるいまここにあるものから神秘的な超越まで、感覚的、経験的、科学的に厳密な観察から、劇的な感情移入や共感に至るまで、字義通りのことから奇想天外なことまで、感情のあらゆる襞と趣味や判断の洗練を含んでいる。「無意識」を含むと考えられるときもあり、批評家が「無意識のうちに」互いに異なると思われる多様な言葉を一つにまとめられると感じる場合がそれである。今日では、「想像力」は、「無意識」の場合と同じように、体系的なファイルシステムには還元できないような微妙な区別や識別を意味する場合もある。
かつて、より直接的な行動の劇学的語彙に占められていた領域をいかに想像力が引き継いでいけたかを確認するには、ジョージ・サンタヤナの『存在の領野』を見るのがいい。サンタヤナの作品が企てているのは、劇学を強調する現実主義的なラテン語文献と、主観的−認識論的−心理学的−科学的−叙情的なドイツの超越的観念論とを併合することだからである。彼の図式でもっとも重要なのは、「精神の領野」と呼ばれるもので、「精神が創造する唯一可能な方法は想像することである」とある(『存在の領野』p.575)。精神はあらゆる情念に耐え抜き(715)、共感や哀れみを博愛に変え(783)、苦しみや死から自由になる(761)。また、
精神がすべての生あるものにもつ潜在的な共感は単に知覚的なものではなく、劇的なものである。・・・行動を見やり理解する行為において、精神はその行動をイメージに高める。想像力は、同じように活き活きとした過程であるが、別のレベルで働く。(715)
ここで、哲学者は、形象が実際の事物の感覚的な表象であることをやめ、想像力を通じてその領野を超越できるような地点について考えている。精神は本来知識を愛するものであるにしても、知識と力とを同一視するベーコンのプラグマティックな見解に彼は同意しない(725)。彼が言うのは、むしろ、精神の知識愛は「想像力への愛」である——想像力は単に空想のなかにいるのではなく現実の知識に基づいており、というのも「それは外的な事物と接触し、生命リズムを拡げ、栄養を摂取する必要があるからである」。
また、現代の理論について考えるとき(しばしばそれはブレイクとコールリッジの庇護のもと想像力と詩とを同一視するので、詩の研究はイメージの研究になる)、その始まりにおいて、想像力という語は<心理学>に属していたことを思い出しておく方がいい。西洋思想では、その次に、修辞学で扱われるようになった(語り手のイメージが聴衆の行動や態度に及ぼす説得的な効果のために)。そして、より後になり、批評家が、言葉以外で反応を引きだす表現よりも、言葉において聞き手を「動かす」ような表現についてより多く考えるようになったときに、今日のある種の文学理論に見られるように、それをほとんど美的な意味に限定することが始まったのである。この語が「本質的に詩的な」ものではなく、本来人間や動物についての一般心理学で用いられるものであったことを思い起こすのが道理に適ったことであろう。多分、ロンギヌスの予言的な言及を除けば、十九世紀のロマン主義に花開いた哲学、文学理論までは全面的に詩的なものとされることなどなかったのである。新しい心理学用語の使用を、詩に異質な原理を導入するといって憤る批評家がいるようなときに思い起こす価値のある事実である。そうした異論は正当かもしれない。しかし、どんな異論であれ、その語が本来文学外的だといった範疇に関わるものでしかないなら、同時に「想像力」という語も明らかに心理学的であり、本来文学外的なものだとして放棄するのでなければ疑わしくなろう。
ウィリアム・ハズリットのような「文学畑」の作家でさえ、「想像力」を美的な観点からよりも倫理的な側面から扱うことができた。『人間の行動原則についての試論』で彼は書いている。
心が意志を決定する際の直接的で主要な動機または衝動は、・・・どんな場合でも、想像力によって捉えられた事物の観念、その観念のみに依存している。
彼はまた、想像力によって、「自分自身にとっての善を追い求めるよう促す動機と、他者の善を追い求めるよう促す動機」を説明している。しかし、ピコとベーコンが想像力を理性の支配のもとに位置づけているのに対し、ハズリットが、想像力自体が「行動の直接の源泉であり導き手であるに違いない」と言うとき、現代における想像力の理性からの解放を準備している。彼は、想像力が「機械的感情の連合である盲目的な衝動を支配でき・・・それらをなんらかの目的達成の助けとする」ことができると仮定している。想像力は、自己の利益に関する観念と他者に対する共感から生じるが、関連した<同一化>については、自己の利益についての動機がより強い場合に起こるものとしている。
私が他人の将来の利益より自分の将来の利益について考えることを好む唯一の理由は、未来を先取りすることで現在の想像力をより居心地のよいものにするからに違いない。より大きな躍動感と力を与えることで、私は未来の感情のなかに入っていくことができ、ある意味それを現在の自分の存在と同一化するのである。同一化という考えが一度形成されると、精神はそれを用い、個人的な動機に現実性と、それが決してもつことのできない混じりけのない真実を与え、習慣や傾向を補強する。それ故、なにかに対する私の実質的な関心は、対象そのものの印象が私の現在の感情と通じ合ったり、私の心に関心を喚起することから生じるに違いないが、想像力を用いると、当然のことながら、未来の善や悪を予想することで影響を受けるのである。