ケネス・バーク『動機の修辞学』 54

.. 殺害と不条理

 

 生け贄に関して。マックス・ブロートからの引用は、キルケゴールの読者が、神がアブラハムにイサクを生け贄に供えるよう命じたという聖書の物語をどのように解釈するかを示している。だが、聖書によれば、アブラハムが「刃物をとり、息子を屠ろうとした」とき、主の御使いが押しとどめ、こう言う。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 

 聖書の一挿話に関して神学理論を打ち立てるというのに、なぜその重要な部分を軽く扱うのだろうか。物語全体を取り上げても簡潔なものである。だが、それをもとに神学的教義をなしたキルケゴールは更に簡潔なものにしてしまったのである。主の御使いがアブラハムの手を止めたのは、アブラハムがイサクを生け贄にすることをいとわなかったのと同じくらい重要な物語の部分なのは確かではないだろうか。少なくとも、イサクはそう考えたに違いない。

 

 周知のように、この章は息子を生け贄にした父親の話ではなく、<代わりの犠牲を捧げることを許された>父親の話である。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」

 

 これは、イサクの殺害を命じた神の話なのだろうか、それとも、アブラハムに<生け贄をいとわないよう>命じる神の話なのだろうか。この点は物語そのものに明らかになっている。神が求めているのは殺害ではなく、そのしるしであることが語られている。しるしが得られたとき、神は息子を助けるよう命じる。「道徳と宗教の範疇」はここではうまく共存しているように思われる。宗教は、最も大切にしているものすら犠牲にするのをいとわない献身を要求する。そして、<種族道徳に最も厳密に従った結果>、アブラハムの息子がテストケースとして選ばれた。種族道徳に従えば、唯一の息子が最も貴重なものだからである。神のここでのやり方は、アリストテレスの『弁論術』にある「論点」の理論に完全に一致している。神はそのとき流通している「一般的意見」のなかで、最高の犠牲という原則について最も説得力のある対象を選んだ。「倫理の神学的な宙づり」など持ち込む必要はないのである。

 

 幸福の要素として、アリストテレスは子供にまつわる親の喜びをあげている。神は、不条理な行為としてではなく、良きアリストテレス主義者として、価値のある論点に働きかけている。結果として、物語に関する限り、アリストテレスならアブラハムの性格造形に使うであろう論点が正確に用いられ、<エートス>に満ちた効果を上げている。

 

 この点を独特なやり方で過度に特殊化するキルケゴール流の実存主義は、挿話を十分に普遍化していない。イメージとしての子殺し(<それ自体>としては、道徳的な罪であろう)にあまりに重点が置かれているが、最高の犠牲という観念(宗教的な敬虔さを示す)により重点が置かれるべきなのである。また、重要な動機づけの要素をすべて論じようとしない点にも誤りがあると思われる。心理主義的な歪曲は、少なくも神自身の動機の言明という重大な箇所を除くことで更に悪化する。歪曲と過度な特殊化の産物として、殺害の礼賛が神学的な意味合いをもつという偏った文学的帰結が一般化される。アブラハムが犠牲をいとわないという物語は、文学者たちによって、イサクの殺害の物語として大事にされる。

 

 ある道徳的命令に従おうとすることで、別の命令を破らざるを得ない場合がある。そうした葛藤には本質的に不条理なものはなにもない。未決定のまま止まるのでなければ、解決には新たなる行為、「跳躍」が必要なのは確かである。この段階に至るには、一原理から諸原理の原理へと向かわねばならないかもしれない(弁証法的秩序から究極的秩序へ)——そして、そうした「通約不可能性」が道徳から宗教への「跳躍」の場と呼ばれるかもしれない。

 

 キルケゴールの場合、性的に翻訳された位階原理をあらわしていた「王女」との個人的な関係が、究極的な弁証法的操作(議会の紛糾に見いだされる限定的なものとは異なる)を要求した。そして、想像力が赴く限り、その弁証法を殺害の神話的形象をあらわす挿話に印象的に還元したので、そのイメージが彼の弁証法の精神をあらわすようになったと言える。それゆえ、人間には闘争がつきものだと知っている読者は、殺害を尊ぶことが低次の道徳ではなく、高次の、宗教的でさえあるものと考えるよう促される。皮肉なことに、このイメージが弁証法そのものよりも強調されると、この教義はホロコーストに<向かい>こそすれ<離れ>はしない。個人的な葛藤が殺害によって解決されるなら、究極的には、戦場のなかで、虐殺のなかで平安を見いだす人間になる以外どうなり得よう。

 

 もう一つの重要な点で、キルケゴール的なまとめ方は割り引いて考える必要がある。弁証法を不条理によってまとめている点である。

 

 確かに、弁証法的操作には、劇的には「不条理」と呼ばれるような矛盾に我々を巻き込むところがある。だが、方法論をもって取り組めば、操作そのものは全く「合理的」だと言えよう。不条理というスローガンは容易に真実を半面の真実に変えてしまえる。それは、人間は生まれたときから死に始めていると冗談を言う者に幾分似ている。彼が言うように、あらゆる変化にはある種の死がある。しかし、またあらゆる変化にはある種の再生がある——こうした一面的な言葉はどう割り引くか知っている限りにおいて安全に使える。要するに、「弁証法」を始めると、不条理に行き当たることがあり得る。しかし、不条理から始めると、間近に否応なく弁証法とすれ違うことが続いても、その明確な姿を捉えられないことになりがちである。キルケゴール風の呪いのもと弁証法に近づいても常に道を踏み誤る危険がある。全く「合理的な」側面を新たに見つけるたびに(言葉の構成や分類の過程)、新たな不条理の領域にたどり着いたかのように考えるよう促されるのである。

 

 例えば、フランスの実存主義運動のことを考えてみよう。修辞学的に言うと、それは、ナチスの占領期間にうまく対応することができた。拘束下にあったフランスの知識人は、キルケゴール実存主義的な再活用によってある種の「純粋な」自由を手に入れることが許された。実存主義は、抵抗か協力かを不確定にしたまま留まる文学運動として検閲に直面することができた。フランス人は政治的には服従しているが、「実質的には」自由でいられるという弁証法的操作が与えられた。自己に向かう攻撃である「自殺」の自由が認められ、その純粋に個人的で深遠なる権威が神の如く賛美される。政治的な窮地が「宇宙論的な」言葉に翻訳されることで、運動は社会性をもった。

 

 しかし、ナチスの崩壊後、占領という特殊な社会状況は既になくなっている。実存主義の支持者たちは運動の幅を広げ、弁証法研究を一般化し、「普遍的な」劇に適用した。自殺は弁証法の特殊な事例として扱わねばならないのに(この書の冒頭で述べたように)、キルケゴール的なひねりに対応するように、弁証法が自殺に還元されるのである。

 

 究極的な犠牲は死ぬことを含む。死ぬことには、他人による、あるいは自らの手による殺害が含まれる。犠牲の要素が殺人の要素(あるいは最近の実存主義的変種では自殺)の背後に隠れるまで重点が移される。ここまでくると、事態は全く逆転する。平和のまさしく本質であった犠牲が、戦争の本質になり、犠牲のことを考える限り、大虐殺を思うときのように、決して平安は得られないのだと頭から信じ込もうとする。確かにここには不条理がある。そして、「弁証法的に」合理的段階を踏んで考えることが未熟さを軽減することになるのに、不条理賛美は結局は未熟さを是認している。

 

 多神論を信じている人間にとって、父である神が息子であるキリストを生け贄として差し出すことにはなんの問題もない。「一人の神」が他の神と(あるいはマニ教のように、同じくらい力のある悪の原理と)宇宙の支配を巡って戦っているなら、神が人類の罪を贖うため自分の息子を悪の王子に生け贄として差し出すのはごく「合理的な」ことである。しかしながら、究極的な語についての語にすべてをまとめあげるものと理解される弁証法的手順によって多神論が一神論に変化すると、犠牲を考えようとするときに新たな問題が生じる。一神論で考え始めると、論理的な「神秘」に行き当たることとなろう。というのも、狩りの文学的賛美や多様なファシズムのあらわれに見えるキリスト教的犠牲の逸脱は、すべての問題を軍事的言葉に単純化し、芸術愛好者のための「純粋な」殺害がある種の精神的な礼拝の対象にまでなるにしても、一神論では、多神論の場合よりも、犠牲の宇宙論的な言い換えを合理化することが困難だからである。

 

 弁証法的には、様々な解決を紡ぎ出すことができるし、それぞれの解決には付随する多様な妨げがある。本質的な「非合理性」などここには存在しない。理性(ロゴス)は少なくも言葉ではあり——弁証法は言葉を探る研究だからである。言葉の源泉を形式的に考えるとき、いかに言語的解決が生じ、いかにそれが言語的難点を生じさせるかが見て取れるのである。



 弁証法的に生じうる不条理の逆説のもう一つの点は、文法的な要素を含み、聖なるものと猥褻なものとが、どちらも「さわることを禁じられている」ために交換可能とされる。しきたりからくるヒンドゥー教の最下層の不浄さは、最上級の「絶対的な尊厳」と対応している。また、軽率な見方をして、ラテン語では犯罪者に「聖なる」を意味する語が当てられるのを見て、その「曖昧な」意味に「非合理性」の証拠を見て取ることも我々にはありがちである(祭壇の聖域が法律の及ばない場だということと関係している)。Kが学校の教師に城のことを尋ねたとき、教師は困惑して、子供たちがいることに注意を促し、フランス語で語った(社会的に禁じられたことを語れる「社会的身分」の言語として)。この出来事は、その性質において、役人のソルティニがアマリアに淫らな提案をした手紙を予示している。こうした「非合理的な曖昧さ」は本質的な不条理から生じたのだと考える必要はない。種と類とのごく普通の関係を劇的に表現したものとして文法的に説明できる。神聖なものと猥褻なものが、どちらも、他の事物や人物とは<区別される>ものなら、その<例外的な>性質は<類として>共通であり、それぞれがこの共通の要素を<種の>特異性であらわしているからである。

 

 禁じられたもの(聖なるものであろうと猥褻なものだろうと)は、経験の前言語的段階では姿が見えず、言語の第一段階において確立される幼児期の不思議な経験、排泄物のタブーと同一視できる。かくして、皮肉なことに、どちらもタブーの原理をあらわす高位と低位の修辞的な同一視において、「最上級の威厳の座」は密かに人間の臀部の意味をもつこともあり得る。ある友人が言った。

 

 「若いとき、王の『王たる高貴さ』はお尻にあり、臣下はそこに服従の意を示すのだと思っていた。位階の原理がなんなのか言うことはできないが、その根本はこの誤りにあらわれている」と。

 

 『ガリヴァー旅行記』の多くの挿話は、スイフトの病的なまでの遊戯性によって、王族にまつわる「聖なる」タブーと排泄物に関する「猥褻な」タブーとの象徴的なつながりを例証している。その同一視が最も顕著に、しかも風刺的な拒否によって遠回しにあらわされている部分は「ブロブディンナグ渡航記」の第六章冒頭近くにある。ガリヴァーはこう語る。

 

我輩は王妃付き侍女に頼んで、王妃の梳毛をとっておいてもらうようにいっておいた。やがてだいぶ貯ったところで、我輩は例の友人の指物師、これがたいてい我輩の小さな仕事をするように命令を受けていたのだが、この男に相談して、ちょうどいま我輩の宿で使用しているのと同じ大きさの椅子枠二脚分を作らせ、凭りかかりおよび座席になるべき部分には、ごく細い錐でぐるっと小さな孔を開けてもらった。でこの孔にできるだけ丈夫な髪の毛をかがっていった。つまりあの英国などの籐椅子のこつだ。でき上ると、我輩はこれを王妃殿下に献上したが、王妃はまたちゃんと居室に飾っておいて、しばしば珍品として人に見せておられた。事実観るほどの人はみんなその精巧さに驚いていたようだった。王妃は我輩にこの椅子に坐れとおっしゃるのだが、これだけは我輩断然お断りしていった、いやしくも一度は陛下のお頭を飾ったこの貴いお髪の上に、物もあろうに我輩の身体でも最も失礼な部分を載せるなどとは、たとえ万死に当たりましょうともできませんと。(中野好夫訳)

 

 

 スイフトの用語法を内的に分析することで始めて分かることだが、この直後にも、もう一つの同一視がある。そこでガリヴァーは自分の「機械の才」について語っている。スイフトの風刺において「機械」という語は、読者にグロテスクに歪んだ精神分析であるスイフトのエッセイ「精神の機械的働き」を思い起こさせるだろうが、そこで彼は観念的熱狂を身体の隠れた部分と関係をもつものとして攻撃している。

 

 『ドイツ・イデオロギー』で、マルクスは、結局は「単一の聖なる頂点」にたどり着く観念論体系を論じ、同じような同一視を行っている。

 

 この「頭中心の体系」は多くの類似点をもつエジプトのピラミッド同様に古く、その首都が最近復活し、永遠の若さを保つプルシアの君主制のように新しい。理想主義的なダライ・ラマたちは、現実においては正反対な者たちと多くの共通点をもっている。彼らは、自分たちが生存するこの世界は自らの聖なる排泄物がなければ存続することができないと確信しているようである。この理想主義的な愚かさが実行に移されるやいなや、悪影響が明らかになる。そのインチキ、信心家ぶった偽善、阿諛追従の欺瞞。奇跡は、観念の王国から実践にかけられたロバだけが躓く橋である。

 

 

 

最後の文章は、同じ意味合いをもつもう一つの道筋を示している。つまり、観念論の教義では、精神の物質的あらわれは内的なものの外化に等しい。

 

 要約すると、「上へ」でも「下へ」でもどちらも「高さの原理」をあらわしているように、優雅な言葉でも、卑猥な言葉でも位階原理をあらわし得る。(この点は『チャタレイ夫人の恋人』と関連する。)こうして、両極が巡り会う。ある人間を非常に道徳的と言うか、非常に不道徳だと言うかは、どちらの場合も、少なくとも「この人間は道徳的見地からいって例外的だ」と言っている点では「同じ」であり——単に「非合理」に思われる「曖昧さ」の背後にも純粋に「文法的な」要素が存在するのである。

 

 退廃したブルジョア社会では、位階原理の倒錯したグロテスクな表現は(「テルシーテース主義」の変種とでも言おうか)、数年のうちに礼儀作法の行き渡る宮廷よりもより適しているだろう。カフカの場合、個人的に非常に低次元な反ユダヤ主義の「超越」に関わっていたので、「崇敬」にはバーレスクの要素がつけ加えられている。啓蒙的な知識人として、二重にそれを軽蔑できたのだが、実際にはその「魔力」は保持されていた。利害に関わり、現実に昇進の条件だったこともある。

 

 また、ブルジョア社会のいい加減な身分が不敬を誘うこともある。「魔術」的な見地からすると、「商人」は不条理であり、というのも高価な品々を「畏怖の対象」ではなく、「常に正しい」買い手を「喜ばす目的」で、<追従>として展示しているからである(最上級の流行店では、商人と得意客とが共謀して「質の悪い」客を排除することで幻影を復元しようとしているが)。同じ問題は、ばかげた製品を売って富を築いた事業家にもより拡大された形でつきまとう。古代の詩的な船荷と現代の没趣味な船荷との不釣り合いを対照的に示したメースフィールドのソネットの魅力は、ブルジョアジーに対する「貴族的な」判断から来ている。それゆえ、彼は爵位を持つにふさわしいのである。

 

 ある友人がこう言った。「恋のためにぼんやりとふさぎ込んでいた高校生の時期、毎日幾度となく常ならぬ迷いや窮屈さを感じることがあった。というのも、遠くから畏れをもって崇めていた好きな女の子の父親は、水洗便所をつくっていた。健全な市民である彼は、琺瑯の便器に自分の名をつけるほど商品に誇りをもっていた。うちのトイレにもその見事な製品があったので、私は愛するものの名を冒涜せざるを得ないわけだった。便器が王様とか、雅とか小さな宝石とかもっと非個人的な商品名だったらと、どれだけ願ったかしれない。」

 

 不条理<経由で>位階を表現するに至るもう一つの誘因として、「人種的な優越性」が絡んでいる限り、金銭による「質」の検証は魔力を損なうという事実がある。「劣った」人種が「優れた」人種の多くよりも財政的には豊かだということもあり得る。資本主義のように、金銭的な規範が動機づけの基本となる社会では、「優れた」人種のすべてが豊かで、「劣った」人種のすべてが貧しければ、「人種差別の」魔力は手つかずのまま残される。同じように、黒人が白人と同じ収益能力を示せば、南部における「白人優位」の魔術は損なわれる。恐らくそれが、賃金と労働のダブル・スタンダードを支えている「修辞的な」動機である。(リチャード・ライトの自伝、『ブラック・ボーイ』を読むと、こうした「秩序」がどれほど悪意をもって徹底的に行われるか見て取れる。)一地域としては国の歳入の僅かを占めるに過ぎず、「北部の搾取」を訴えさえしているものの、南部は魔術的な理由のために賃金を抑えているのである。黒人の賃金を低く抑えていれば、「北部から来た外部の組合組織者」が圧力を加えない限り、賃金基準を一般的に低く抑えることができる。不合理や不条理への意図的な称讃は、こうした状態の認識を曖昧にし、その言及にさえある種の悪趣味や文学的な粗雑さが示されている。しかし、同じ不条理から発する「弁証法的な」方法は「合理的」であり得るのである。

 

 また、資本主義経済で定期的に起こるように、経済に「危機」(「判断」)がつきものである限り、合理的な啓蒙主義は、それを「神の行為」ではなく人間の過失とし、支配階級を疑うので、秩序に対する「崇拝」よりは「冒涜」への誘因のほうが多く存在する。そして、「冒涜」はすぐに「非合理的」な過剰を招き寄せる。

 

 また、威厳が金銭的な優位によって証明されるなら、ごく典型的な会社では、より高い地位にあるものが一般の労働者よりも「恐ろしいほどの」収入を得る「魔術的」必要があろう。「権威」が他の手段によって守られるかどうかは疑わしい。「幸福の追求」は、成功と失敗につきものの際限のない要求に応える「より多くの魔術」を追求することに変わり、競争にさほど関わってはいない下役でも、あおられ刺激されるのである。動機は「貪欲さ」ではない。そう願いたいくらいで、というのも、貪欲は満腹し、いやされ、飽き飽きすることがあり得るからである。しかし、社会的領域で「より多くの崇拝」を求めること、神聖探求の無意識の戯画、ごく「普通」になったこうした幻影には終わりがあり得ない。神を敬うことで神を探す努力はもう十分になされたかもしれない。だが、人間が、「不条理」礼賛において共感し、教義とする社会的幻影や「崇敬」によって「神を探求」する努力には際限がないに違いない。