ブラッドリー『仮象と実在』 63

     (過去、未来、同一性に関する難点。)

 

 過去と未来の出来事について明らかな問題点が生じる。もしそれらと、それらと現在との関わりが実在ではなく、しかもそれらがなんらかの意味で存在しているなら、そこには私が入りこむ気のない難点が生じる。しかし、過去と未来(あるいはそのうちのどちらか)がなんらかの意味で実在だとすると、第一に、この系列の統一は不可解なものとなろう。第二に、現前もしておらず、与えられてもいない(過去といえど与えられていないことは確かである)実在に現象主義は直面するわけである。ここにも不整合がある。

 

 同一性の問題についても考えてみよう。同一性とは多数性の実在における統合なので、現象主義はそれを否定しなければならない。しかし、変化は、明らかに、なにかが生じるときにそこになければならないものであるので、否定されない。もし変化があるなら、その帰結として変化するなにものかが存在する。しかし、もしそれが変化するなら、それは多様性を通じて同一だということになる。別の言葉で言えば、実在する統合体で、具体的な普遍である。例えば、運動をとってみよう。明らかにそこではなにかが場所を変えている。それゆえ、それがなにを意味するのであれ、場所の多様性--いずれにしろある多様性--がなにかについて言われなければならない。もしそうなら、我々は一度に一と多とをもつことになり、それがなければ我々の理論はが一般的事実を扱えない。

 

 端的に言って、この教義が排除した同一性は存在に本質的なものである。それはどこにまで及ぶのだろうか。異なった現象の系列は一つの系列だろうか。違うなら、なぜそうであるかのように扱うのだろうか。一つなら、そこには我々をためらわせる統一があることになる。諸要素は永続的で、ある時間同一であり続けるのだろうか。しかし、同一であれそうでないのであれ、諸事実はどのように説明されるだろうか。第一に、変化と多様性の戯れのなか同一であり続ける要素があると仮定しよう。そこには形而上学的実在があるが、それはこれまで論じてきた古くからの難点を生じる。しかし、恐らく、諸法則以外真に永続的なものはない。変化の問題はあきらめ、移ろっていく諸要素の継起のうちに存しあらわれる法則に頼ることにしよう。もしそうなら、現象はその時々の法則のあらわれということになろう。