ブラッドリー『仮象と実在』 109

... [時間はいくつかの方法で、自らを越えた何ものかを指し示している。]

 

 時間は批判の検証に堪えうるものではなく、一触れしただけでばらばらになり、幻影であることを明らかにする。自己矛盾の詳細について繰り返すつもりはない。第一巻で示したとおりである。ここで始めて示さねばならないのは、そうした矛盾によって、時間がいかにして時間を超えたものに我々を導くかである。時間を含み超越する高次の何ものかを指し示している。

 

 1.第一に、既に見たように(第五章)変化は永続的なものと関係していなければならない。疑いなくここには解決することのできない矛盾がある。しかし、にもかかわらず、継起が生じているところでは、変化はなんらかの永続性を求めるという事実は残る。この要求が首尾一貫していると言いたいのではなく、反対に、そうではないという点を強調したいのである。首尾一貫しておらず、それでも本質的である。それゆえ、変化は単なる変化を越えることを望むのだと私は主張する。永続性と矛盾がない変化になろうとするのである。かくして、そのように自己主張することで、時間は現象としては自殺を試み、自らの性質を越え、より高次なものに吸収されようとする。

 

2.同じ結論は、もう一つの不整合性からも引きだすことができる。未来、そして過去と現在との関係は、時間がその本性を越えようとする姿勢を再び示す。ある期間をどんな目的で取ろうと、いかなる推移も現在のものとされる。そして、この推移は一度期に存在するものであるかのように扱われる。それ以外にあるものについてどうやって語ることができようか。もしそうで<ない>なら、あるものがある性格をもつとどうして言えるのか私には理解できない。もしそれが現在としてないなら、それが<ある>とどういう意味で主張できるのか私にはまったく理解することができない。科学に共通した振る舞いはこうした反省を引き起こすに足るものだと私には思える。科学は一方において時間の存在を認めながら、他方においてそれをまったく無視していると言える。習慣的に過去と未来を現在と一緒のものとして扱っているからである(第八章)。ある存在の性質はそれがいままで経てきたことと(潜在的に)これからなるであろうものによって決定される。しかし、そうした属性が現前していないなら、どうしてそれは実在であり得ようか。また、時間と特別に関係をもたない法則を確立する際、科学は様々なデータから集めた事実を同じ価値をもつものとして扱う。だが、もし真剣に時間を実在とするつもりがあるなら、どうして過去は実在たり得ようか。ここでこうした分かり切った議論を繰り広げてみても無駄であろう。科学にとって、実在は少なくとも無時間的であることを<目指す>ものであり、継起は正当な根拠を欠いた単なる現象として扱われると指摘すれば足りる。

 

 3.同じ傾向はもう一つの応用例においても見て取れる。我々の精神の働きはすべて時間を無視している。知性は常に真であるものを真として受け入れ、識別できないものの同一性に恐れることなく立脚するだけでなく――それだけではなく、「連合」と呼ばれるものの全体は同じ原理が含まれているのである。というのも、こうしたつながりは、不変のあいだ以外には保持されないからである。※1連合された要素は時間的な文脈からは切り離されている。それは本来結びついていたものから自由になり、時間的な実在は無視して新たな結びつきを形づくる準備ができている。これが結果的に時間を現象のレベルまで降格させる。他方において、我々の心はすべてこうした法則に従って動いている。我々の全存在は実際上この法則を含んでおり、それに反抗できると想定するのは単なる自己欺瞞でしかない。再びここで時間を超えようとする抗し得ない傾向を見いだしたわけである。我々は再び無時間的な実在の虚偽の現象を見いださざるを得なくなる。

 

*1

 

 こうしたやり方で我々は時間を無視している、という反論があるかもしれない。暗闇のなかにある我々のもっとも低次な心的性質を支配し、科学によって意識的に使用されるこうした永続的なつながりにおいても継起はそのまま残っているのだと。法則は常に単なる共存するものの法則というわけではなく、先行するものと次に来るものとの関係をあらわすものでもある。それは正しいが、それによって時間が整合的なものであると示せるわけでないのも確かである。時間は不整合であり、それゆえ、我々は時間の自己超越を主張している。因果関係において固執されているこの時間的な継起は古くからの矛盾をいつまでも保ち続けることしかしない。時間が本来もつ自身を越えでていこうとする傾向に抵抗はするが、それを取り除くことはできない。時間は自己矛盾する現象であり、無時間な性質になろうと無駄な努力を重ねている。

 

 時間のなかの存在を現象としてより明瞭に扱うことのできる別の領域について言及してみるのも有益かもしれない。既に我々が結論をだすに足りることは十分に述べたであろう。我々の結論はこうなろう。時間は実在ではなく、無時間的な性質をもとうとする首尾一貫しない試みによってその非実在性をはっきりと示している。その個々の性質が併合されるようなより高次な性格に属する現象である。それ本来の時間的性質は完全に存在しなくなるわけではないが、その性質をまったく変えてしまう。それは相殺され、包括的な調和のなかに失われる。絶対は無時間的であり、時間特有の側面をもっていても、そうした側面は孤立したものでなくなることで、特殊な性格を失うのである。そこに存在するが、我々の見分けることのできない全体に溶け込んでしまっている。しかし、見分けることができない、また、どうしてそれが存在するかわからないからといって、不可能だということが示されるわけではない。それは可能であり、先と同じく、可能性で十分である。可能であれば一般的な根拠においては必然的であり――実在であることは確かである。

 

*1:※1この点については私の『論理学原理』、また以下の第二十三章を参照。