ブラッドリー『仮象と実在』 98

    ... (誤りはいかようにか、実在に属している。)

 

 問題は誤りと絶対との関係にある。虚偽の現象がどうして実在のなかにあることが可能なのだろうか。我々は幾分かは誤りがなにによって成り立っているかを見ているのでもあるが、我々本来の問題にも直面している。自己矛盾する性質づけが事実として存在し、それがどのようにして実在となりうるのだろうか。内容の自己矛盾は実在に属するとともに、属することができない。関係する諸要素、その総合、存在との関係――それらは無視することができないものである。それを咎めることはできるだろうが、咎めてみても、それらをすべて廃棄する呪文として働きはしないだろう。もしそれらが存在しないなら、それらを判断することはできず、存在しないと判断することになる。或は、なんとかして、実際に存在することなく、外面的に存在しているのだと言い張ることになる。この難問からの出口はどこにあるのだろうか。

 

 事実の全体を受け入れ、それを修正し補っていく以外に方法はない。誤りは真実で<あり>、部分的な真実であって、部分的であり、不完全であることによってのみ間違っている。絶対はなんら差し引かれることもなくそれらすべての性質を<もっており>、我々の間違いによってもたらされるような配列もすべて有している。唯一の失敗は、我々がそれを補正するものを提示できないところにある。実在は間違ったあらわれの不調和や矛盾を有している。しかしまた、こうした衝突が十全な調和へと呑み込まれ、溶解するような性質をももっているのである。<我々に>与えられたものを単に再配列するだけで、<我々が>その矛盾を取り除くことができると言いたいわけではない。能力は限定されており、我々は全体のすべての細部を把握することができないからである。誤りとして咎められる古い配列のすべては、それ自体がそうした細部の一部であることを記憶に止めておかねばならない。良いものであろうと悪いものであろうと、すべての結びつきを含めた宇宙のすべての要素を知ることは、有限な精神には不可能である。それゆえ、我々には矛盾を完全に再構築することができないのは明らかである。しかし、一般的に、細部において見て取れないものも理解することはできる。我々には、絶対において、どのようにして豊かな調和が個々のあらゆる不調和を包摂するのか理解することはできない。しかし、他方において、こうした結果に達することは確信をもつことができる。そして、有効な原理について不完全であるがある考え方を得ることもできる。このことについて説明してみよう。