ブラッドリー『仮象と実在』 87

 

   ... (思考が二元論を超越することに成功するなら、思考としては滅びる。)

 

 単なる否定では十分満足がいくと言えないことは私も認める。そこで、思考に固有の二元論が解消されたと仮定してみよう。存在はもはや真理と異なるものではないと仮定し、それがどういう結果になるのか見てみよう。それは思考の自殺に直結している。内容の全体は我々の実在を呑み込み続ける。しかし、実在において、我々は感覚経験の事実、快苦に彩られた直接のあらわれを有している。この事実を追い払う呪文を想定しても差し支えはない。しかし、こうした事実が思考-内容の体系においてどうあらわされるかは解決することのできない問題である。思考は相関的で論証的なものであり、そうでなくなるのであれば、自滅するしかない。しかし、そうであり続けるなら、どうしてそれが直接的なあらわれを含むのであろうか。不可能が達成されたと仮定してみよう。諸関係によって結びついた観念内容の調和に満ちた体系、自己意識的な調和のうちに自らを反映する体系を想像してみよう。それは実在であり、実在の全体である。その外部にはなにも存在しない。肉体の喜びや苦痛、魂の苦悶や歓喜、それらは思考の調和のとれた体系から逸れた断片的な流星である。しかし、そうした燃えさかる経験がどうして、思考が形づくる天上界の星くずであり得ようか。流星の逸脱があるなら、思考の領域の外部の世界が存在することになるし、逸脱はあってもそこに人間の誤りそのものは含まれないからである。端的に言って、天界は天界ではないか、すべての実在を含むものではないものでなければならない。比喩を抜きにして言うと、感じは完璧な思考に属するか、属さない。属さないなら、思考を越えた存在の側面が存在する。もし属するなら、その思考は論証的で相関的な思考とは異なることになる。直接的な経験を含むようにすると、その性格は変わらなければならないのである。述語づけることを止め、単なる関係を越え、真理以上の何ものかに達しなければならない。一言で言えば、思考はより十全たる経験に吸収されなければならないのである。その言葉を使いたいというなら、そうした経験を思考と呼ぶこともできるかもしれない。しかし、感じであるとか意志であるとか別の言葉を好む者がいたとしても、同じように正当なことだろう。帰結するところは両者を含み、各要素を越えた全体的状態だからである。そのどれかを取って語ることは言葉の遊びであろう。(繰り返さねばならないが)思考が相関的なもの以上になり始めると、単なる思考であることを止めるからである。関係が投げだされ、再び戻される基盤となるのは、この関係によっては汲みつくされないなにかである。端的には、単なる真理ではない存在であろう。かくして、あらゆる側面を含み得る全体に達するには、思考は感じや意志から生じるものを吸収しなければならない。そして、そのどれもが滅びることなく共にあるとき、調和のとれた全体として合わさらねばならない。そうした全体が幾つかある側面の<一つ>にしか過ぎないことがあり得ないのは確かである。問題は宇宙がなんらかの意味において理解可能かどうかでは<ない>。宇宙を考え、理解するとして、思考と事物とのあいだに差異が残されないかどうかが問題なのである。それがあり得ると仮定すると、思考はその本性を変えないのかどうかが問題となる。

 

 この想定された完成が含むものをよりはっきりと理解するよう試みてみよう。真理と事実がそこにはあるのであるから、なにも失われたものはなく、絶対において我々は経験のすべての要素を保っているに違いない。しかし、他方において、より少なくもつことはできないが、より多くもつことはあるかもしれない。このより多くは我々の実際の経験に数多くの要素をつけ加えるので、全体がまったく変わってしまうこともあるかもしれない。実在と完全に同一化する理解に達するには、述語と主語、主語と対象が、つまりすべての関係が融合しなければならない。絶対は眼が鏡をのぞき込んだり、籠のなかのリスのように、完成のために環を回転させるようなことを望んでいるとは私には思えない。こうした過程はその過程よりも貧しくない豊かななにものかのうちに解消されねばならない。感じや意志も、思考が入るこの全体のなかで変形しなければならないだろう。そうした全体は、我々が感じに(多かれ少なかれ)見て取る直接性より優れた形式をもっているだろう。この全体においてすべての分断は癒やされることになろう。あらゆる要素が調和を保ったまったき経験となることだろう。思考は高次の直感としてあらわれることとなろう。意志は観念が実在となるときに存在することとなろう。美と快と感じはこの全体的な充足のなか生きることとなろう。情熱、純潔、肉欲などすべてのものはいまだ収まらぬ完全なる絶対のうちで燃えつき、一つの音はより高次の至福の調和のうちに吸収されることとなろう。細部においてそれがどうすれば可能なのか想像することもできないことは認める。しかし、真理と事実が一つのものなら、どうにかして思考はこの完成に達しなければならないのである。しかし、この完成において思考が変容していることは確かであり、それを思考と呼び続けることは擁護できないように思われる。



 まず第一に私は、思考の正確な意味においては、思考と事実とが同一ではないことを示してきた。第二に、もしその同一化が達せられると、思考はその性格を飲みつくす実在に行き着くと主張した。次に問われるのは、思考の弁護者が依頼人の幸福な自殺を阻止するような防護壁を見いだすことができるかどうか、となる。