ブラッドリー『仮象と実在』 81

  .. 第十五章 思考と実在

 

      ... (観念の本性。)

 

 我々の絶対についての考察に対して読者があげる自然な反論がある。難点は、それ自体で擁護することができるような説をなすことよりも、明らかな矛盾とどう調和させるかにある、というものである。真の問題は、仮象と悪、有限な存在一般がいかに絶対と共存しうるかを示すことにある。こうした疑問は無視することはできない。次の章以後で、我々の重大な関心事となるだろう。一度に進もうと思わないほうがいい。誤りについて考える前に、真理ということで何を意味するのか、なんらかの考えを得ておく必要がある。この章では、簡単に思考の主要な本質を述べ、それと現実の存在との区別を正当化してみたいと思う。思考を実在以下のなにものかだととることに困難を覚えるのは単なる誤解による。

 

 実在と考えられるものがあるとき、それが何であれ二つの側面が見いだされる。そこには、常に、我々が述べることのできる二つの事物がある。両面について言うことができないならば、実在を得たことにはならない。それが「何」であるかと、「そのもの」自体、つまり、存在と内容で、両者は切り離すことができない。なにかが存在するが、個別には存在せず、性質は性質づけないが、何ものかにある性格を与える、というのは明らかに不可能である。「そのもの」だけを得ようとしても、性質づけて得るか、完全に得ることに失敗するかのどちらかである。「何」そのものを得ようとしても、すべてを得ることはない。それはなにか存在を越えたものを指し示しており、それ自体で、単なる形容詞として存在することはできない。どちらの側面も個別には実在とはとることができないものであり、実際もはや実在ではない。それらは区別することができるだけであり、分割はし得ないのである。

 

 だが、思考は本質的にこうした分割によって成り立っているように思われる。思考は、ある部分までは観念なのは明らかだからである。観念がなければ思考はなく、観念は内容と存在との分離を含んでいる。「何」は観念である限り、<存在>ではなく、<存在>であるなら観念と呼ぶことはできない。観念性は性質を存在から分けることにあるからである。それゆえ、イメージと観念とを同一視する一般的見解は、根本的に間違っている。イメージは、感覚と同じく実在する事実である。観念とは別の種類の事実であり、すこしも観念的ではない。しかし、観念は、存在との直接的な結合においてある限り、事実の内容のある一部である。観念の事実としての存在は、イメージ同様ある種の感覚や知覚にあるかもしれない。主要な点であり本質的なのは、ある事実の「何」は、「存在」を越えて働き、存在から自由である限り、分けて考えるべきだということである。こうした運動が観念性であり、それがないところには観念は存在しない。