ブラッドリー『仮象と実在』 68 

     (現象は事実であり、何らかの形で実在を性質づけねばならない。)

 

 我々は物自体の教義が不条理であることを見てきた。この種の実在は、確かに、証明できないものではない。反対に、つくりだすことの容易な間違った空虚な抽象であることが十分自明である。我々は実在が仮象ではないことを見いだし、それはよいことであるに違いなかった。しかし、他方、実在はあらわれることのできないなにかではないことも確かなのである。というのも、それはまったくの自己矛盾であり、その意味を理解していないときにのみ説得力があるからである。知識の外側にある実在を主張することは無意味である。

 

 このように、我々の問題を棚上げし、現象<だけ>を相手に楽をしようとする試みは潰えた。離れたところに偶像を置き、いまの理性の捉える事実が事実であることをやめ、なにか別のものになる<はず>だと夢見ても無駄なことだった。この誤った観念は我々が心からきっぱりと追い出すべき幻影である。我々はこれからもあらわれの本性について探求していくこととなろう。いま我々がしっかりと銘記しておけるのは、仮象は存在するということである。このことは完全に確かなことであり、これを否定するのはナンセンスである。そして、なににしろ存在するものは実在に属していなければならない。これもまた確かなことであり、否定するのは自己矛盾である。確かに我々の仮象は貧弱にしかあらわれず、その知られていない性質は真の実在ではないかもしれない。それは、そうした事実が実在しないかのように、あるいは、それらが属する実在以外のなにものかがありうるかのように語ることとは同じようでありながら、まったく異なったことなのである。そうした考えはまったくのナンセンスだと私は繰り返さねばならない。あらわれるものは、そのことだけをもってして、疑いようもなく<存在する>。その存在を呪文によって切り離すような可能性はない。我々は、現在。実在の正確な性質についてなんの問いかけもしていないが、仮象以下のものであり得ないことは確信している。その最低限のものでも現に存在するものになんらかの貢献をしていることは確かだと思う。第一部の結果は数言で要約することができる。これまで我々が見てきたものはすべて仮象であることがわかった。そのままの状態では自己矛盾していることが証明され、それゆえ確かに実在ではあり得ない。しかし、その存在を否定したり、実在と分けてしまおうとするのは問題外である。というのも、それは疑いようのない事実として明確な性格をもっているし、いかにその事実が仮象だといわれるとしても、実在をのぞいてはそのいる場所があり得ないからである。そして、仮象とは離れた反対側にいる実在がなにものでもないことも確かであろう。かくして、確かなのはこの切り離すことのできない両者がどのようにしてか結びついているということである。これが我々の議論から生じた否定しがたい結論である。これまでの我々の失敗は、どうすれば仮象が実在に属することができるのか、その方法を見いだせなかったことにある。満足できる結果を得る希望がどれほど僅かなものであっても、我々はさらなる探求に向かわなければならない。