ブラッドリー『仮象と実在』 125

  .. 第二十章 要約

 

      ...[ここまでの結論。]

 

 ここで我々が辿ってきた道のりを振り返ってみてもいいかもしれない。第一部において我々は実在を捉えようとする幾つかの方法を検証し、それらが致命的な矛盾を含んでいることを見いだした。それに基づき、それらが実在ではありえないことを直ちに主張した。しかし、反省によって、我々の否定は実定的な知識に基づいていなければならないことを認めた。我々が敢て行なう非難は、我々がなにかを知っている限りにおいて可能だからである。それ故、我々の確信するところによれば、実在は実定的な性格を持っており、単なる仮象ではなく不調和とは両立しない。他方、それは孤立したなにか、現象の否定でしか性質づけられないような立場にあるものではありえない。というのも、それでは現実には何ものでもないなにかについての矛盾を本質的に含むことになり、現象を矛盾のままに残すからである。それ故、実在は一なるものでなければならず、多様性を排除するのではなく、その性格を変えることによってなんらかの方法によって含むものでなければならない。実在の外部に出ることができるようなものは明らかに存在しない。それは自ら排除するあらゆる述語によってあらゆる部分を性質づけられねばならない。互いの欠如と均衡をとるようにそうした性質をもつことになる。それはあらゆる部分的な食い違いがより高次の一致として解決され残るありあまるほどの豊富さをもつことになる。

 

 そして我々はこの絶対が、我々が述語づけたりなにかを語ったりするときに意味するものであるゆえに、経験であることを見いだした。単なる意志や思考のように一面的な経験ではない。生の不完全な形に優越しそれをすべて包摂する全体である。この全体は感じのように直接的でであらねばならないが、感じのように区別と関係を感知しないレベルでの直接性ではない。絶対はこうした差異を保持し超越する直接性である。それは自己矛盾があり得ず、経験と観念との分断を被らないので、苦痛を越えた均衡の取れた快である。あらゆる意味においてそれは完璧である。

 

 それから、我々は有限の多様な形式がこの絶対のなかで場所を占めているのかどうか調べることに進んだ。我々はなにも失われることなく、すべてが調和に向けて尽し、善であるに違いないと主張した。そして我々は、〈いかに〉が説明不可能であるという事実を強調した。細部における解決を見て取ることは我々の知識には可能ではない。しかし、他方、そうした説明は必要ではないことを主張した。我々は確かに思われる一般的な原理をもっている。唯一の問題は、有限の形式のなかで、この原理を破壊してしまうような否定例があるかどうかである。我々の絶対が可能ではないと示すようななにかが存在するだろうか。我々探ってみた限りでは、なにも発見できなかった。現在のところ、絶対を疑うなんの権利も持っていない。それが可能であることを否定するにたるなんの根拠も有していない。しかし、もし絶対が可能なら、我々に必要なのはそれを探りだすことである。既にそれを必然的なものとする原理はもっている。それ故、それは確実である。