ブラッドリー『仮象と実在』 77

     (存在論的議論。)

 

 最初に、「存在論的な」議論を手短に扱うことにしよう。その本質的な性質については後により明らかになると望んでいるが(第二十四章)、ここではなぜそれが我々の助けとはならないかについてだけ指摘しておこう。この議論は様々な形で述べられるが、主要な点は非常に単純である。我々は完全という観念をもっている--そのことについては疑いがない--問題は、完全が実際に存在するかどうかである。存在論的な観点から主張されるのは、観念という事実が実在の事実を証明するというのものである。別の言い方をすれば、完全が存在しないなら、観念においてもそれをもつことができない、と論じられる。いまこの議論の一般的な妥当性を論じはしないで、適用性を否定することに限定したい。ある観念が一つ以上の源泉から取られる諸要素によって作り上げられ、構成されているなら、そうしてつくられたものは、いかにその多くが異なった要素によってなっているにしろ、私の思考を離れて存在する必要はない。かくして、ある意味において、完全あるいは完成は観念に存在しなければ、実在もまたないと認めることができる。我々はこれを認めることができるが、実際的な完成については同じ結論を否定する。というのも、実在の完成は単に理論的なものだからである。このことは、体系が体系である限り、理論的な調和でしかなく、快楽を含んではいないことを意味する。至る所から取られる快楽の要素は、我々の精神のなかで、この厳正なる観念につけ加えられる。もしそうなら、この付加は不調和で両立不可能、実際には矛盾するものであるかもしれない。恐らく、快楽と体系とは、実際は、間違った複合物であり、我々の頭にしか存在しない仮象である。例えば、限定された完全な存在を考えるときなどがそうであろう。存在論的議論は実際的な完全性の存在を証明することはできない(1)。では、別の証明法があるかどうか調べてみよう。

 

(1)こうした複合物が存在するという反論については第二十四章で扱う。私が「存在」と「実在」とを区別していないことに注意していただきたい。317頁参照。