ブラッドリー『仮象と実在』 78

      (実践的理論的公準。)

 

 実際的目的が、事実としての完全性の存在を仮定していると思うのがある意味自然である。しかし、より注意深く調べてみるとこの考えは消散していく。道徳的目的は現実に存在する道徳性が発するものではいことは明らかである。道徳性が正反対のものを仮定しさえすることはまったく明らかで、容易に認めることができる(第二十五章)。確かに、後に見るように、宗教的意識は目標でもある対象の実在を含んでいる。その対象が完璧である宗教でさえ不整合が見いだされるのであるから、道徳性ではなおさらである。理想されるものの存在を含む宗教は、同時にまったく両立不可能な特徴をも含んでいる。この点については後の章で論じるが、ここでは、宗教的意識は完全性が実際に存在することを証明することはできない、と述べておこう。あらゆる宗教において、対象が完全性にあるというのは真ではない。そうだとしても、宗教は思考を指図したり支配する権利をもっているわけではない。信念が、ある種の影響を与えることで実際上抗しがたくなり、真として認めざるを得なくなるわけではない。宗教には、理想を存在するものと取る傾向がある。この傾向は我々の心を揺すぶり、ある条件では強制にまでなる。この理由によっても、理想は真理を与えるものではなく、それを疑わざるを得ないような経験を思い起こすこともできる。例えば、ある女性を愛した男は、冷静に考えれば真とは思えないことも、彼女の前でのぼせ上がってしまうと、盲目的な情熱の赴くままにしてしまうことがあるかもしれない。いずれにせよ、それは知性にとってのみ確実なことであり、落ち着いているときに知性が疑うことができないものである。思考にとって唯一強制的で抗しがたいのは--このことはそれを否定しようとしたときにのみあらわになるのだが--形而上学的真理にとっての確実な基盤である。

 

 「だがどうして」と問われることとなろう、「知性の卓越、思考の優越性を正当化できるのか。こうした専制政治はいかなる根拠に基づいているのか。公平に見れば、知性の公準に特別な力があるようにも思えない。問題を偏見なしに考え、公準一般の性質について反省すれば、まったく異なった結論が得られるかもしれない。というのも、あらゆる公準は、事実上、実際的なものだからである。すべてが意志に基づいている。いずれも、ある種の仕方で行動する衝動以上のものではない。それに従わなければ満足することができないこうした衝動を表現することしかできない。知性とは、支配力をふるう権利があるどころか、実践的衝動の一例であり、一徴候に過ぎない。(より心理学的に言うなら)、知性とは快苦の一般的な働きの一帰結でしかない。従属的なものでさえあり、専制は根拠のない見せかけに基づいている」と。

 

 疑わしい心理学的な背景はともかくとして、この反論に含まれる一般的な真理については私も認めることができる。理論的公準は、ある種の仕方で行動しようとする衝動を言明したものである。こうした衝動が満足されないと、衝動が求めるものを獲得し、平静を生みだす結果を得るまでは不安とある種の運動が続く。こうした行動の根本的原理をあらわしたものが公準と呼ばれるものである。例えば、矛盾を避けるという法則を取ってみよう。二つの要素が共存せず、相争い衝突するなら、我々はこの状態に満足することはできない。我々の衝動はそれを変更することであり、理論的な側面から言えば、衝突なしに、多様性が一つのものと考えられるような内容をもたらすことにある。矛盾のうちに落ち着いていられないこと、なんとかそれを調整しようとすることに、我々の公準と知的基準が反映され、明らかになっている。

 

 「しかし、それでは」と私はなおも問われることになろう、「あなたの立場を明け渡すことになるのではないか。理論に用いられる判断基準は、実際的な衝動、我々の存在の一側面から生じる運動への傾向だと認めることになるのではないか。もしそうなら、どうして知的基準が支配的となり得よう」と。しかし、ここで区別する必要がある。問題は、我々の存在にある幾つかの衝動の差異に関わっている。(1)お望みなら、知性を運動への傾きといってもいいが、それが非常に特殊な運動であることを思い起こす必要がある。後に思考の本性についてより深く述べることにするが、重要な点だけ述べよう。思考において規範は実質的には「かく行動せよ」に帰せられる。「かく行動せよ」は「かく思考せよ」を意味し、「かく思考せよ」は「現に存在するもの」を意味する。この運動の心理学的起源や基盤、それ以外の行動をとれない理由は好きなように考えて貰っていい。形而上学にまったく関係のないことだからである。考えることは特殊な衝動を満足させる試みであり、この試みには実在に関する仮定が含まれている。考えることを止める限りにおいては仮定を避けることができるが、一度ゲームの席に着いてしまえば、ゲームのやり方は一つしかない。考えるためにはある基準に従わねばならず、基準には実在の絶対的な知識が含まれている。疑うにしても受け入れることになり、反抗しても従うことになる。仮象は排除されたわけではなく、単に棚上げされているに過ぎないので、結局のところ思考は不整合なのだという主張があるかもしれない。それは後の章で扱うことなので、ここでは触れないことにする。いずれにせよ、思考はある種の基準を受け入れることを意味し、基準は実在の性格を仮定するものなのである。

 

(1)第二十六章と比較せよ。

 

 「しかし、なぜ」と反論があるかもしれない、「実践的なものよりもその仮定の方がいいのだろうか。なぜ理論的な目的は実践的な目的より優れているのだろうか」と。私は決してそんなことを言ったのではない。形而上学のなかでは、我々は理論的に振舞うのだとここでは答えざるを得ない。我々は特殊な場におり、特殊な条件に従っている。理論において理論的な基準が絶対的なものでなければならないのは確かなことである。盲目的に突進している道徳の言うことを聞くのは正しいことではない。「かく行動せよ」と道徳は主張し、「そうあるかでなければ不満足に終わる」。しかし、不満足ではあっても、私はやはり実在する。「かく行動せよ」と思索が答えるときには、「かく考えよ、さもなければ不満足に終わる、かく考えなければあなたの考えていることは実在ではない」と言っているのである。この二つの主張は直接に関係しているようには思えない。私が理論的に満足できないなら、実在にあらわれるものは違った風にならざるを得ない。しかし、実践的に不満な場合、同じ結論は生じない。二種類の満足は同じものではなく、一方から他方への一本道があるわけでもない。別の方面から同じ問題を考えてみよう。道徳は形而上学に命令を下したがっているように思われるが、それに応じた命令を受ける準備はできているのだろうか。実在の世界が理想とはまったく別物であり、理論的にはこの結論を揺るがすことができないというとき、道徳はこの結果に従うのだろうか。にもかかわらず、自分の根拠を守ろうとするのではないだろうか。事実はおっしゃるとおりであるかもしれない、にもかかわらず、そうあるべきではないのであり、別のなにかであるべきなのだと。道徳はこうした道筋を取ると思われるし、もしそうなら、理論における同様の立場を受け入れるべきである。自らが、こうあるべきだと言って命令を認めないのであるから、事実がどうであるかについて命令を下すべきではない。

 

 確かに、我々の本性の統一性を信じている者にとって、一面的な満足では信用できないだろう。そうした考えは、私の心でも非常に重みをもっている。本性の一側面に立ち、そこから直接他の側面を論じることは違法であるように思える。ここでは、道徳がどれほど整合性があり、完全な調和を保っているかを尋ねようとは思わない(第二十五章)。明らかに思われるのは、理論だけに頼ろうとすれば、自らの立場を失い、異質なるものの占領を誘うということである。間違いは主として本質的な区別を遵守できないことからきている。「かくある」は常に「かく考える」ことを意味しないし、「かく考える」はその主要な意味合いにおいて「かくある」を意味しないのは確かである。この相違は「すべきである」と「かく存在する」との相違であり--一方から他方への直接的な道筋が私には見ることができない。ある理論が意志によってつくりだされるならそれは意志を満足させねばならないし、そうでなければ失敗だということになる。形而上学が単なる理論であり、理論がその本性上知性によってならねばならないから、ここでは知性だけが満足されねばならないことになる。本性のすべての側面を含むことのできない結論が私を不満足のままにおくことは間違いない。しかし、私には「私の本性を満足させない」ということから「それゆえに間違っている」と続く道筋が見て取れないのである。というのも、間違っているというのは理論的に擁護できないのと同じであり、我々が仮定しているのは、理論だけで満足され、その帰結である結論が真と認められるような事例だからである。私の見る限り、もし知性が満足させられるなら、問題が解決することを認めねばならない。知性による結論に満足を感じることはできるが、こうした前提のうえで、それが間違っていると抵抗することはできない。