ブラッドリー『仮象と実在』 222

[意志の優先は幻覚である]

 

 この結論で先へ進むことができるが、その前にいわゆる意志の優先性といわれるものについて一言述べずにはおけないと信じる。第一に、意志が実在であるなら、いかに仮象がその土壌と関連しているか示す責任がある。そして、我々の失敗においては、我々はこの関係の背後に未知の統一があることを知り、、意志そのものは部分的なあらわれの場所を得ている。しかし、我々が意志の性格を考えるとき、どのような場合でも同じ結論が明らかである。我々が意志として知っているものは関係と過程、それに解決されていない諸要素の矛盾を含んでいる。同じことはエネルギーや活動性、その種のものに同様に言える。実際、しばしばそのことについて考えるとき、そのように考える傾向があるとせざるを得ない。しかしながら、多分、この複雑性は意志のあらわれであり、意志それ自体は実在かつ最善のもので、他とは異なっているといわれることだろう。しかし、もしそうなら、現象とこの実在との関係は再び我々の元に戻ってくることになる。それとは別に、意志それ自体へ訴えかけることは無益である。というのも、我々が意志として知っているものは過程をふくんでおり、意志として知らないものはその名で呼ぶ権利はない。それは単なる物理的な出来事かもしれないし、形而上学的な実在を含むかもしれないが、どちらの場合でも、それが要求する限りにおいてすでに意志を扱っている。端的に、形而上学や心理学における意志への訴えは、未知のものと戯れる非批判的な試みである。基本であり説明である振りかもしれないが、基礎は理解され、説明はかっけんされるべきである。そして、形而上学に関する限り、そうした不毛の自己欺瞞を考えつくこともできる。単なる知性はすべての現象を説明する能力がないので、当然別の側面が頼りにされることになる。単なる知性の欠点を補うといわれるこの未知の実在は、盲目的にもっとも対立しているように思われる側面と同一視される。しかし、知性以上の未知の実在で、意志とあらわれ、それに知性そのものにさえあらわれるもの――そうした実在は意志でなければ、事物の他の部分的側面となる。我々は一面的ではなくあらゆる欠点から自由な完全なすべてを包括するような全体性をに訴えることになる。そして我々はそれを意志と呼ぶことになるが、というのも意志には特殊な欠点をひとつも見いだせないからである。しかし、そうした手順は合理的ではない。

 

 意志の優位性を擁護する別の側面からの試みもあるかもしれない。あらゆる原理や公準は最終的には実際的でなければならず、従って意志の表現と呼ばれねばならないと主張されるかもしれない。しかし、そうした主張は間違っているだろう。公準や原理は我々の本性の多様な側面の表現であり、すべてが実際的と考えることができないのは確かである。我々の多様な姿勢、知的、美的、実際的、それらはひとを満足させるある種の表現の様態である。それらの様態において我々は安らぎ、その不在は苦痛、不安、欲望をもたらす。そして、もちろん我々はそれらの性格を区別し、理想として、それらを目的や意志の対象とすることもできる。しかし、意志とのそうした関係は、道徳的な目的を除けば、その本性に内在するものではない。実際、原理は意志されるがゆえに意志されるというのは、原理はそれらが意志されたがゆえに正当であると主張するより正しいだろう。結局のところ、そうした事物は意志の対象であるというのが、上述のように予期される反論である。同じような議論は、明らかに、意志と世界をあらゆる側面において反映するゆえに知性が最上なものだということも証明するだろう。この急ぎ足の考察によって、私は最終的に意志の卓越といわれるものを捨て去らねばならない。これは常に哲学上の混乱のぬかるんだ避難所であり続けるに違いない。しかしその主張は、暗闇がそれらを曖昧にぼかしている限りはもっともらしいように思える。それは単に理解不可能であることを好まないところでは明白にばかげている。