ブラッドリー『仮象と実在』 180

[そして、我々の基準はあらゆるところで適用可能であること。]

 

 我々の基準は、自律的な形での実在である。それは多数性と諸関係を与えられると、個別的な体系を意味する。外側からの制限は内的な内容を異質なものに依存させることになってしまうので、完璧な体系は有限ではありえない。それゆえ、調和と拡大のしるしは、我々の原理の二つの側面である。外的なもののより大きな領域に拡がり、吸収していく調和(他の事物は同一のままである)に関しては、内的にはより分断されないだろう(1)。ある要素が一貫したものとなればなるほど、その他のものが等しいならば、より多くの領域を覆うことになるだろう。思考によって抽象されるか、感覚によって孤立化されるかして、我々がこの真理を忘れるなら、それら宇宙の断片を、そうしたものとして述語化することで思い起こすことができる。そのとき、もし我々がそれを真なるものとしたいのなら、我々の述語の不整合と、我々が付け加えねばならない外的な付加物の大きな拡がりを認めざるを得ない。それゆえ、広さ、あるいは一貫性の量が現実そしてまた真理の程度を与えることになる。あるいは、同じことを別の側面から見るなら、欠けているものによって評価を与えることもできる。その欠陥が正されたときに加えられる変容の量によってその現実性は測られることができる。正されることによって現象が変化させられ、破壊されることが多いほど、そうした現象の含むことのできる現実は少ない。あるいは、別の言い方をするなら、真に実在を表象することがより少ない。この原理によって我々は漠然とした「妥当性」という語により明確な意味を与えることに成功する。

 

*1



 そしてこの基準は、少なくとも原則的には、あらゆるたぐいの主題に適用可能である。というのも、直接であれ間接であれ、内的な統一が多かれ少なかれ保存されているあらゆるものは、実在に相対的な空間を有している。たとえば、快や苦痛の単なる強さであっても、その意識の占有以外に、外的な領域や結果の後輪のようなものがでている。そして低次の感覚においては、それらの結果は存在の部分であり、あるいは少なくともそれに属している。そして時間における、また空間における拡がりの知覚という事実は、明らかにそれらを比較する点を与える。また、どこにも存在のない抽象的真理をとると、その影響が働いている比較される領域を考えることができる。そして、我々がそうした原則の実在に関して疑いを感じがちなときには、次のように矯正できる。宇宙から取り除かれたものをあらわすすべてのものを想定し、この除外がなんの相違ももたらさないことを主張してみよう。さらに進むと、社会的システム、ある意志をもつ個人的な成員が意識し、自然に我々の検証に従うようになる。我々は具体的な内的統一のより高次な発達にここで気づくに違いない。というのも、そのなかで可視的なものではないが、外的な事実に従属する個別性を見いだす。時間的な系列における現象の優越性は、宗教、思弁、芸術の世界に進むに従い、より高次なものとなる。内側の原理はより広いものとなり、強い統一感をもつものとなる。しかし、時間的な存在の側面からすると、そのようなものとして提示されることはありえない。原則がより高次になり、いわば事物の魂をより活気強くもつようになると、最終的にそれが支配する出来事の領域において広い比率をもつようになる。しかし、この理由だけでは、そうした原理は扱い得ず、理解し得ないし、いかなる方途によっても外的、あるいは内的知覚には当てはめられない。それによってあらわにされ、感覚される事実として検証されうるのはよりみすぼらしい諸現実でしかない。

*1:

(1)読者は、感じ取ることのできない不整合や散乱が、それゆえに、もっとも大 きなものであることを忘れるべきではない。感じそのものは、いかに不完全なもの であれ、ひとつの統一であり解決である。