ブラッドリー『仮象と実在』 206

[その不整合、無あるいは悪に終わる。]

 

 これは道徳性が否応なしに駆り立てられるように思えるという見地である。人間がその内的な意志のみによって判断されるのは、結局のところ、否定できないように思える。そして、そうした教義が自己矛盾し、善の概念と食い違いを見せるなら、それは善が現象に過ぎないことのもうひとつの証左であろう。いま扱っている見方は、その矛盾に誇りを持っているとさえ言える。それは自己矛盾をより開放的に示していることは認めざるを得ない。道徳性は存在の本質の直接的な否定からなっており、それなしでは実際のところなんでもない。(1)しかし、同じ不整合が、より覆われてはいるが、我々の教義には内在している。結局、意志はなにかをしなければならず、することによって特徴づけられるに違いない。他方において、なにかをすることによる性格はそれに「与えられた」ものに依存している。我々は二つの致命的な帰結の選択をしなければならない。ひとがしたことはなんの関係もないか、単なる「意志」を超えた別の何かがあり、それが善と認められねばならないかである。

 

        

*1

 

 「道徳的美質」と呼ばれるものについて少々述べることによって始めよう。もしこの言葉が善や悪にはそれらを超えたなんらかの報いがあることを意味しているなら、それは非整合である。というのも、もし美徳と幸福のあいだになんらかの本質的な関連があるなら、美徳はその本質すべてを考慮に入れて、再定義しなければならないからである。しかし、他方において、つながりが外的なものなら、正確にどのような意味でそれを我々は道徳的というのだろうか。我々は美点という観念を諦め変更するか、道徳的善という極端な概念を変更しなければならなくなる。そしてその作業のなかで、この概念がいかにして崩壊するかを示すことになろう。

 

 第一に、それは通常の道徳性とは矛盾している。一般的な生では、望まれるような人間的性質は是認するという事実には言及しないことにする。美、冨、力、健康、幸運――それらすべてはおそらくは他のなによりも人間の美質と呼びうるものであり――我々はそれらを讃仰し、是認する。しかしそうした称揚にしても、その反対の非難にしても、我々はおそらくは道徳的に正当化することはかなわないだろう。そして、この点を遣り過ごしさえすれば、すべてのものに道徳的といわれるであろう美質だけに関わることができよう。一般的な生の美徳は、それによって個人が評価されるものであり、明らかに多くの部分で気質や成長の過程に依存している。個人の意志に帰することができたいために、あるいはそうである限り、それをまったく放棄することは、乱暴な逆説である。もしそれが正確だとしても、少なくとも日常的な道徳性に対立している。

 

 この教義は、さらに検証を深めても、最終的になにも見いださない。その観念は自分の意志から発するものを信頼するが、その咎についてはなんでもないものとする。というのも意志からの帰結においては、「自然の」源泉から発しないような材料が存在しないからである。そして、すべての結果はその起源が実際上の偶然にあるのだとしても、その結果は「自然の」要因に動機づけられ、性質づけられている。道徳的人間は全能でもなければ全知でもない。彼は自分の知っていること以外しないという意味においてのみ、道徳的に完成している。しかし、身体的あるいは心的な弱さや病が彼の努力に反対したらなにをしうるだろうか。「本来」与えられている力なしに、どのように努力ができようか。そうした観念は心理学的には不条理である。もし二人の個人を取り上げて、一人は外的にも内的にも有利な立場を受け継いで、他方は不利な点ばかりを受け継いだとすると、彼らを判断する際に、そのことをまったく考慮に入れなくていいのだろうか――そしてどのような結論を得るだろうか。しかし、考慮に入れることは、道徳的人間はもはやわかっていることを意志してするものではなくなるので、我々の教義の本質をあきらめることになる。結果的には、我々は道徳的に判断することがまったくできないか、あるいは異質な贈物、あるいは認可として道徳性をもっていることを信じていることになる。道徳的知識のことを考えても、難点は同様である。教育や生まれつきによってよりよく知ることがあるなら、常に最上の知識を持っているものなどいないことは確かである。(1)しかし、再び、我々はそれを許すことができず、それは道徳性には関係がないといわねばならない。端的に、誰がなにを知ろうが、なにをするのを見ようが関係はない。悪と善との区別は実際には消滅している。道徳的健闘の強さに戻ったところで我々の助けにはならないだろう。というのも、強さは生まれつきの本性によって決められているし、次に、善というのはそれ自身においての闘争にあろうからである。自分よりもよい人間をつくりだすことは、その内部に分裂と道徳とを増やすことで、悪を付け加える場合もある。端的に、善ははじめは人がそう呼べるものをすることを意味していたが、いまでは単にすることをすることしか意味しなくなっている。あるいはまた、なにをしようと、なにを意志しようと、自然や道徳に無関心なものが混入している。簡単に言えば、善と悪とのあいだに相違はない。

 

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 しかしそうした結論は、既に可能性として語られてきたが、まったく間違っている。というのも、善についてのあらゆる物事が、外からとられねばならないとしても、自己あるいは意志はそれを割り合てる力をもっていなければならないからである。 形式的な行為によってそれをまとめ上げ、与えられた物事を変容し、生のままの自然の状態を自らのものとし、道徳なものとすることになる。他方において、あらゆる行為は身体的な条件の結果であると主張しなければならない。(1)物質的なものによって決定されない形式的行為は、その行為をはじまりにおいて或いはその結果において考えるとしても、無意味である。また、行為が道徳的に特徴づけられ、物質によって判断されると、最終的に善と悪との相違は存在するだろうか。行為の身体的な起源やその本質的な性格をみると、行為は、もし可能だとしても、単に形式的なものではあり得ず、非道徳的と呼ばれるものに強く依存している。

 

        

*3

 

 物質と独立した形式が何ものでもないことは確かであり、それゆえ、道徳性でもあり得ないことは確かである。偶然によって内容が満たされ、道徳であると自称するものだけがそうなりうる。道徳は形式でしかなく、それゆえ間違いである場合にのみ 自己賞讃に退化する。行為がたまたまそうなった、あるいはあるいはたまたまそれに似たものになったというのは浅薄な良心になる。肯定と事実のあいだには、真の関連はない。私的な感傷や偶然の欲望を呑みこんだ空虚な自己意志と自己肯定が善という仮面をかぶる。それゆえ、道徳的であることを装い、単なる悪と同じであり、それはなんら変わるところがないのに、さらに悪いことに偽善が加わっているからである。(1)というの他人にそうと認められていない悪でも、それ自体善でない悪は、原則的に、独りよがりの自己満足と自己意志として責められるからである。自己そのものには価値がないというよくある告白は、自己を超えた善をうける価値には身を開いている。道徳性は善と悪とが完全に我々自身に依存しているわけではないというところに追いやられており、このことを認めると、最終的にそれらを超えてしまうことになる。道徳的義務が非道徳的でもあると認めれば、やっと最後の点にいきつかざるを得ないかねばならない。

 

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*1:

(1)『倫理学研究』エッセイ4

 

*2:(1)これは卑俗的に自由意志と呼ばれているものによって否定されるかもしれない。自己や意志をつくる試みは、具体的な条件から抽象し、責任ある振る舞いの主となることにある。しかしながら、抽象においては、自己や意志は何ものでもなく、「自由意志」は偶然を意味するに過ぎない。支持者は少なくともそれ以外のことはできない。偶然が責任ある立場をもたらし、彼らは当然のことながら議論から尻込みするだろう(『倫理学研究』エッセイ1とスティーブン氏の『倫理学についての科学』282-4ページ)。理論的に考えようと実際的に考えようと、自尊心のある作家はこれを真面目に扱うことはできないだろう。

*3:

(1)快楽主義者に共通なのは、決してそれをしようと望むことはできないし、いつそれをするかもわからないことになる。「客観的正当性」と呼ばれるものは、最終的には、確かな人間性を確かめるものではないし、悪がいかなるものであるかという個人の意見でさえない。善と真理とのあいだの関係に対する知的な見解は、快楽主義一般から予期されるものではない。

        (2)『倫理学研究』213-217ページ参照。

 

*4:  (1)道徳的哲学の選ばれた地であるわが国が、偽善ともったいぶった口振りの国民として海外で評判をうけていえることを示しておいていいだろう。