ブラッドリー『仮象と実在』 208

[それはなんであり、どうやって満足を約束するのか。]

 

 この高度の意識において、私は完全な解決が見いだされるとは言わない。というのも、宗教は実践的なものであり、いまだ善の観念に支配されているからである。そしてこの観念の本質には解決されない矛盾が含まれている。宗教はいまだ還元されない側面を維持しており、そうしたものとして、統合することができない。端的に言えば、それは一種永続的に動揺と妥協の産物として存在している。それがどのように単なる道徳性を超えるかを見て置こう。

 

 宗教ではすべてが最上の意志の完璧な表現であり、(1)それゆえあらゆるものが善である。不完全や悪、意識的な悪意はすべて取り上げられ、絶対的な目的に仕えることになる。それゆえ、最終的に間違いも真理も真であることがわかるように、善と悪も双方とも善である。それらは同様に善であるが、他方において、等しく善ではない。悪は変質し、悪としては破壊されるが、多様な程度の善はその性格を守ることができる。善は真と同じように、全体的に却下されるのではなく、付加される。善の程度を計測するには、現象の二重の側面、強さと拡がりの究極的な同一性を心に浮かべねばならない。しかし、宗教においてはさらに、有限な自己が完璧に達し、二つの側面の分離は取り除かれ克服される。有限な自己は完璧な全体の本質的な器官として完璧なばかりではなく、それ自体で完璧を実現化し、それに自覚的である。悪が廃され、善が付加され、知識と欲望との一致が完璧を征服するという信念は、有限な存在が自らを完璧なものとして自己意識することである。またその他においても、同じ完璧性が実現される。全体が有限な存在のなかで完全であるところでは、それらは自分自身が体系の要素で、一員であることを知っており、それこそが自らの完全性における個人の意識である。その完璧性は疑いなく贈物であるが、与えるものの外部には実在はなく、贈物を個別に受ける者たちは間違ったあらわれに過ぎない。

 

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 しかし、他方において、宗教は善を完全に超えねばならず、にもかかわらず、実践に必要とされる対立関係を維持していなければならない。最良を尽くすこと、意志と善とを融合することだけが完璧にいたることができる。この統一がない限り、悪は存在しつづける。悪が残ることは抑えつけられるべきで、完全に亡びることである。それゆえ、自己の理想的な完璧性は、自己の不完全や悪に向けた敵意を増すことになる。自己は完璧であろうと格闘するが、同時にその成就が既にできあがっていることを知っている。道徳的関係は従属的ではあるが、影響力のある側面として生き残る。

 

 道徳的ではない道徳的義務は、端的に言って、宗教的義務である。宗教に対する人間の 美点は、最上の意志の実在のあらわれであるから、すべて善である。悪だけが、悪の性質に溶け込んでいるために、善ではない。この性格のなかにはなにかしらの実在があるといえる。悪は確かに全体における善に貢献するが、全体のなかでその本性を変容させるなにかに貢献するのである。悪そのものにはある意味において程度はないが、別の意味では、悪に程度があることも確かである。同様に、宗教は善の程度や相違には関わらない。あらゆる個人は、善である限りにおいて、完璧である。しかし、存在する美点への貢献の比率によって、また、意志を完璧な善にいかに強く同一化するかに従ってよりよくもなる。

*1:(1)この信念の究極的な真理については次章を参照。