ブラッドリー『仮象と実在』 203

[しかし、一般的な倫理学はそのそれぞれを究極的なものとし、必然的に失敗する。]

 

 こうして我々は十分時をかけて進んできた。しかし、ある種の読者のために、善の相対的な性格についてもうしばらくとどまろう。多くの英国のモラリストは、善は究極的で絶対だと盲目的に仮定している。形而上学については彼らは無能で、彼らが信じ、あるいは少なくとも尊重している宗教においては、道徳性そのものは従属的なものでしかない――そうした事実は彼らにはなんの示唆も与えない。異なった程度をもつあらゆる有限な事物は実在し、真であるが、同時に、究極的なものの一部ではない、という見方について無知である。そして彼らは、全体を全体たらしめる諸外観が互いに争いあったとしても、全体は首尾一貫したものであり得ることを理解しない。異なった別々の現象を絶対的で相対的ではない事物として取り上げて、非実在的で、非真理といった部分的な性格をそれぞれに貼り付ける。そして、そうした一面的な抽象は、一緒にすることで本質を改変され、究極的で根底的な事実と考えられる。かくして、善のなかにおいて、自己肯定と自己犠牲の目的は一貫しておらず、各々が自身へ向かうこともあれば他方に向かうこともある。それらは断片的な真理であり、そのどれもそれ自体究極的な真ではない。しかし、一般的なモラリストがそれ自体真だとする相対的側面がある。続いて起こるのは当惑と盲目的な混乱と錯誤である。その詳細にわたることは私の任ではないし、欲求もないが、それを簡単に考えてみることはためになるだろう。

 

 しばしば忘れられているように思われるが、最初に明らかにしておくべきことがある。善が、最終的には、自己完結しており実在であり得るなら、我々は美徳と利己性との関係について関心を払う必要はない。というのも、それらのあいだに差違がなく、単に我々の盲目性によって、願望で前者に軍配を上げているのであれば、我々はいまだ主要な問題を解決していないことになる。隣人に善を求めることは、それ以外に私自身にとってよいことはなく、自己犠牲や慈善的行為が、事実上、私の優位を保つ唯一の可能な方法であることは確かである。しかし、他方において、いかに満足のいく手段によって優位性の均衡を保つとしても、それが私の欲望の充足ではないことは確かだ。というのも、(よく言われているように)人間存在の欲望には限界がないからである。別の言葉で言えば、善は完全に達する企図を含んでおらねばならず、有限なるものの本性とは有限が決して満足できないようなものを求めることにある。しかし、もしそうなら、優位性の均衡では私は自身の善を実現していない。そして、この世界に自己探求に純化されたもの以外それほど多くの美徳が存在しないとしたら、美徳は一貫性のないものであり、それゆえ不可能である。

 

 さらに、陳腐さに恥じ入ることなく、読者の注意をある明白な真実に向ける必要があろう。社会的組織において、不完全な善より以上に個人を守るような組織は存在せず、そのすべてにおいて自己犠牲は原理の失敗を示す事実となっている。スペンサー氏が予言したニュー・エルサレムのような想像上の社会においてさえ、悪が消滅するのは無思慮な残忍性によってのみである。というのも、有限な存在が身体的に偶然に従属していることは容易に忘れられるものではないし、その本来的な性質がどうにかして取り除かれると信じられもしない。そして、いずれにしろ、有機体の成員は必然的に多かれ少なかれ全体の犠牲になる。というのも、それらは多かれ少なかれその働きにおいて特殊であり、その限りにおいて一面的で狭くなることを意味するからである。そして、もしそうなら、個的な存在の調和は不可避的にある程度被害を受ける。そして、個的なものがなんらかの美的あるいは知的探求に専心するなら、そこでも被害を被るに違いない。別の側面からいうなら、新エルサレムのなかで、ひとが単に善のみを目指すとしても、にもかかわらず不完全と失敗があらかじめ定められている。というのも、欠陥があり、変化して行く本来の基盤の上に、長和のある体系を建てようとするからである。その仕事は、こうした理由によって希望がないだけではなく、もうひとつの理由によってより希望のないものである。彼は有限な限界のなかで、調和のある全体を建設しようとするが、その材料として、本来終わることがなく、際限のない諸関係の世界にある彼を無限に越えゆくものを用いざるを得ないからである。そして、もしそうなら、再び我々はおなじみの真理、人間による完成の可能性など存在しないという真理に連れ戻されることになる。しかし、もしそうなら、完全を求めざるを得ない善は本質的に自己矛盾しており、最終的には非実在となる。一面的で相関的な現象であり、究極的な実在ではない。

 

 しかし、善とその他のあらゆる現象に共通する相対性の観念については、一般的哲学は盲目的なままである。あらゆるものは錯覚でそれゆえ何ものでもないか、他方では、事実であり、存在するがゆえに、実在である。その実在は相対的な非実在の体系以外にはあらわれ得ない。この体系を離れては、互いにまたその内部に相矛盾するあらわれが存在する。にもかかわらず、この食い違う要素の領域以外では、何ものも存在しないし、し得ない。そして、もしあらわれが直接的に自己矛盾ではないとしても、それらが実在のあらわれであることは可能ではない――このことで一般的な考え方のすべては無意味なものにとどまる。常識は実在ではない事実という観念にあからさまに反抗している。あるいはまた、より控えめな批評として、注意深い質問を示唆することを誇り、教条的に、もっともきめの粗い偏見の真理を仮定する。その虚弱さがあらわされているのは、善に必然的な食い違いへの姿勢における一般的な倫理以外にはない。こうした食い違いは、善が絶対ではないからこそ存在し、その解決は、善が現象にまで降格する以外に可能ではなく――そうした観点は盲目的なまでに無知である。自己肯定と自己犠牲のそうした対立が、それぞれ内的に首尾一貫しておらず、非合理的なものではないかどうかを問おうともしない。そうした手順は、第一に、それぞれの対立軸が固定され、双方がそれ自体を超えることはないだろうとことが暗黙のうちに仮定されている。そして、この基本から、両極端のうちの一方は幻影として排除される。あるいはまた、双方ともに絶対で、しっかりしており、それらを外的に結びつけるか、どのような具合にか双方が一致していることを示そうとする試みがなされる。そうした展開について少々付け加えておこう。

 

 (i.)善は自己犠牲と同一視され、それゆえ、自己肯定は完全に排除される。しかし、自己犠牲としての善は、明らかにそれと衝突する。というのも、自己否定の行為は、同様に、ある意味で自己実現であり、それは不可避的に自己肯定の側面を含んでいる。それゆえ、単なる自己犠牲としての善は実際には意味がない。というのはそれは結局のところ有限なもののなかにあり、善は実現されねばならないからである。さらに、完全性は常になんらかの完成でなければならないということはまったく首尾一貫しない。それは全体としては善は何ものでもないか、各々がそのものとして善ではなく、外的に付け加えられるなにかを意味するだろう。別の言葉で言えば、この場合、善は善ではなくなるだろう。前者の場合には、実定的なものはなにもなく、それゆえ無となろう。それぞれは一般的な完成を求めているが、全体が一歩先んじているのが、それ自体が全体に含まれ、共有することで集合のなかに加わるのが――それは純粋な自己犠牲ではないことは確かである。それぞれが自己の利益とは離れた隣人の繁栄を求めるものだとする公準は、自己矛盾であることが見られる。究極的で合理的なものとはなり得ず、その意味で究極的とも合理的とも言い得ない。(1)

 

 

*1

 

(ii)あるいは、あらゆる自己超越を無益な言葉といえ排除するなら、一般的な倫理は、善を純粋な自己肯定として打ち立てるかもしれない。各々が自己を探求することや優位ですべてが最良に保たれ、そしてこの付加は明らかに自己肯定のなかには含まれておらず、正当に含まれることができない。というのも、そうした付加によって、もしそれが必要であれば、結末も同時に本質的な変更を被ってしまう。それは純粋は自己肯定であり、そのように性質づけられないとしても、善として採用された。そしてこのことだけがいま我々が考えねばならないことである。まず我々が認めるのは(先に見たように)、完成が有限な存在に実現できはしないので、そうした善は到達不可能だということである。物理的な基盤はすぐに転換し、内容は本質的に、自己の外部にある世界に属している。それゆえ、それらが完成に向かい、その中で調和を得ることは不可能である。実際、到達不可能なものに接近しようとすることはあるかもしれない。自身の内部にある体系を狙い、力尽くで用いられている物質の必然的な連関から抽象することもできる。このことを考え、ある一面に適用するなら、本質的な諸側面の単一な部分を考えることになる。しかし他の側面は分かちがたく我々の意図に反したものがもちこまれ、我々の努力は矛盾で台無しにされる。かくして、優位性そのものを不完全に追い求めることさえ、それ自体純粋にはまったく存在しないものなので、根拠のないものとなる。個人の道徳的目標を定めることは、まず最初に彼が孤立していることを仮定しており、批判的な常識に特徴的な特性だった。個人は関係を断ち切り、あるがままのもので、批評によって俗人が理解する通りのものだというのは教条的な仮定だからである。しかし、こうした疑問が議論されると、まったく異なった答えが返ってくるに違いない。個人の自己探求によって認められた内容物は、必然的にその私的な限界を超える。それゆえ、ひとは自らの優位性を求めるという公準は、厳密にとれば、首尾一貫しない。そして、再び言うが、矛盾そのものであるような原理は、合理的ではない。(1)

 

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 (iii.)第三に、自己肯定と自己否定が等しく善だと認め、一般的な思考は外側から見れば、両者は共通したものだとしようとする。善はそれら独立した諸善の一致からなっていることになろう。二者は融合して第三のものに変化しはしない。他方において、それぞれはその性格を変えることなく、二者は二者のままいかようにか結合している。このことは、すでにこの著作を通じてみてきたように、まったく不可能である。もし二つの争いあう有限な要素がどこかで調和するなら、第一の条件はそれぞれが自らを控え、その私的な性格を超越することにあろう。別の言葉で言えば、それぞれがすでにその内部において食い違いを解決し、自らを超え、反対物とより高次の産物のなかで融合することになる。しかし、そうした超越は一般的な倫理では意味をもち得ない。それぞれの有限な目的を検討し仮定することは、それ自体を根拠のあるものとする。それゆえ、それぞれはそれ自体としてはともに満足するものとなろう。そして、理論について盲目であることは日常生活においてドグマの実際的な反駁においても盲目であることである。一般的な幸福を求め、その目標を一般的な達成に見いだすこともあり得る。善は既に超越的なものとなっており、一面的な要素を解決している。善は既にそこにあり、外的な隣接ではなく、対立物の実体的な同一となっている。それらは一致してはいないが、それぞれが他の一側面となっている。端的いえば、善のなかでは作業は不完全にはじまり、完成したときには、善を超えたところに連れて行かれる。しかし、既に見たように、いっっぱんてきな倫理学では、善そのものではなく、その各々の一面的な姿が絶対的なものとして固定されてゐる。それらは非合理的な独立において固定されており、その努力は外的な隣接のうちに善を見いだすことになる。

 

  善は明らかに二つの究極的な善の一致にあり、 しかし、そうした目標がいいかにして究極的あるいは根拠のあるものとなりうるのか理解するのは困難である。二つの要素が必然的に一緒になり、同時に、そのどちらもがこの関係によって性質づけられず、あるいはまた、最終的な関係がそれら二つを従属させ、性質づけるようなもののない全体を含む――こうしたことは結局のところ、理解不能に思われる。しかしまた、関係と全体が両者を性質づけ れぞれ自体が究極的なものに成り得ない。(1)端的に個別の現実の隣接は自己矛盾する観念である。しかし、この自然な常識は知識をまったくもたず、盲目的に不可能な仕事に進んでいる。

 

      

*3

 

 その仕事は善の絶対的な性格を、そこにあらわれている食い違いは最終的には消え去り、それらの食い違いには、にも関わらずそれぞれの性格のなかに生きつづけるということを示すことで防御しようとしている。しかし、、一般的な倫理学にとってはこの仕事は通常理解されていない。それゆえ、自己探求と慈善の一致を証明しようとするか、別の言葉で言えば、もし道徳が不可能なら、自己犠牲を示そうとする。そして、この意見においては、主要な問題は解決するだろうという結論に達する。こうした達成において究極的な目的のいくつかは従属的なものとなるかどうかは問うまい。というのも、いずれにしろ、その結論において、主要な問題には触れられていないからである。既に見たように、我々の欲望は自分自身に対するものだろうと、他に対するものだろうと、完成にたどりつく前には止まらない。しかし、各々の個人がそれ以上のことを言わないなら、他人の利害について関心をもつ価値があるとしても、完璧がそこに不在であることはたしかだろう。そして善が不在を目指し、善がもたらす難点をなしに済まそうと主張しても、無思慮となろう。しかしながら、既に見たように、それは特徴的な無思慮である。道徳的な調和を生みだすための外的手段に話をうつそう。

 

 ほとんど言うべきことはない。前に踏み出し、弱いすり切れた仕組みを見いだすことができる。もちろん、それは機械としての神であり、第一原理を学んだ真面目な学生は考えさせられもしないものである。別の具合に物事を作りだす神は、その本性をもたず、不条理として直ちに放逐されるだろう。そしてこの完成が有限のなかになるなら、我々は事物の本性と正反対に向かうことになる。親切でありたいという願いがあって、――特に私の生が無限の長さをもつと想像されるようなとき――それ自体では、また我々の知識に照らしても不可能だとはいえない。しかし、他方において、そうした想像上の改善は実際の主要な問題を解決するものではないことは認めている。こうした信念は、美徳が最上であり、唯一の真の利己性であることを確認して、平安を与えてくれるかもしれない。しかし、そうした真実は、もし本当だとしても、われわれのしんのもくてきをともに、あるいはその一方でも実現してくれることを意味しはしないだろう。そして、そのことに失敗しても、広範囲にわたる食い違いは善から取り除かれはしない。一言で言えば、機械仕掛けの神は働くことを拒否する。この立派な人工物は、新たな衝突と困惑しかもってくることはできない。この面倒な手段をあきらめたあと倫理学が好むのは、「理性」に訴えかけることである。というのも、二つの道徳的目標がそれぞれ合理的なものであるなら、それらが合致しないなら、事物の本性は非合理的なものに違いないというわけである。しかし、他方において示したように、どちらの目標もそれ自体において合理的ではない。そしてもし事物の本性が相矛盾する要素を備えており、争いあっているのなら、その性格を変えずにそれらを一致させること――それは事物の本性を不合理、あるいは一般的倫理の典型とすることになる。宇宙において実現されない教義を見いだすことに失敗して困惑するようなこのような考え方は、結局のところ、我々を全般的な懐疑論へと脅かすだけである。再びここでも、実際にはなにも知らないことについて語ることになる。というのも、正直な懐疑論は理解の外側にあるからである。正直で真理を探究する懐疑論は、目標に疑問を抱き、始まりとされているもののなかに目的がひそんでいたことを知る。しかし、(いわゆる)常識の懐疑論は、最初から最後まで教条的である。まず、なんの検証もなしに、ある種の教義は真だということを当然のこととする。それからそうした教義を寄せ集めて同意にいたる。そしてその要求が宇宙によって拒絶されると、にもかかわらず古い仮定を幾度でも繰り返す。この教条主義が、議論を妨げ、困惑させるので、懐疑主義という名を得ているのである。しかし、個別の偏見に恐れることなく攻撃を加える真正の懐疑主義は、あらゆる有限な観点はそれ自体をとれば不整合であることを理解する。そしていずれの場合にも自己超越的なこの種の不整合から、そうした懐疑主義はあらゆる有限物が混じり合い、解決する全体を見やる場所を得る。しかし、各事実や目的が、究極的であることや合理的であることを前面に出すと、最高度の意味における理性や調和があらわれはじめる。そして懐疑主義は最終的には、建設的形而上学の単なる一側面として生き残ることになる。これをもって一般的倫理の非合理な協議についての議論は去ることができる。

 

*1:

(1)この意味においても、他のどんな意味においても、善が否定的に定義されることがないことはつけ加えておいてもいいだろう。いかなる定義においても、この点において、否定的な用語が導入されると、読者は特にそこに欠陥を見いだすことができる。

 

*2:(1)「優位性」を「快楽」と書き換えても結論は同じである。快楽も必然的に他の内容と関係し、孤立したものではなく、運や偶然と隣り合っているからである。もちろん、部分的な目標を伴ったものを狙ったり考えたりするという意味では、「単に自らのための」快楽を追求することはできる。しかし、この目標が「単に自らのための」と矛盾するような別の側面をもたないと主張する場合、その主張は間違っている。利己的な行為が常にその行為者を超えたものに関わらねばならないというのは、道徳的に平凡な主張であろう。

*3:

  (1)同じ難点は一般的な公準を言明しようとするときにもあらわれるだろう。両者は他方によっても全体によってもそのままに留まろうとも究極的なものともなり得ず、性質づけることは超越することだからである。発言に否定的な形はいずれにしても目的にはまったく役に立たず、問題を曖昧にするだけに思われる。しかしながら、このことのために、それが直観的に選択される。