ブラッドリー『仮象と実在』 79

     (しかし、間接的には、理論的完璧性はあらゆる側面における完璧性を含んでいるように思われる。)

 

 それゆえ、完璧を喜びに満ちた調和と理解するなら、実在が完璧であると示す直接的な手段は存在しない。現在見て取れる知的基準に関する限り、それには苦痛や部分的な不満足が伴うかもしれないからである。しかし、別のやり方で考え、別の根拠に立てば喜びによる調和が可能ではないかと問えば、問題は大きく変わるように思われる。知性が命令を受けることはない、この結論は争う余地がない。しかし、他方で、我々の本性の他の要素が満足していないにしても、知性が自身だけで満足することができるのは確かではないだろうか。部分的な不満足が、間接的に、知性を動揺させ、不完全をもたらすと考えるべきではないのではないか。もしそうなら、絶対者にいかなる意味でも不完全さを認めることはできない。いかなる失敗も知覚に不調和をもたらすだろう。知覚において実在が調和に満ちているならば、全体として調和に満ちているのであり、我々の全本性を満足させねばならない。この考え方に従って先へ進めるかどうか見てみよう。

 

 絶対者が理論的に調和したものなら、その要素は衝突しないに違いない。観念が感覚と一致しないことはないし、諸感覚がぶつかり合うこともないに違いない。つまり、あらゆる場合において、闘争が単なる闘争で終わることはない。闘争が寄与する統一、闘争のもはや存在しない全体があるはずである。この解決がいかにして可能となるかは後の章で見ることになろうが、いまのところは、そうした全体が存在しなければならないとだけ主張しておこう。実在は調和しているので、多様な要素、感覚、観念など同一部分のほとんどないものはあらかじめ除外されていなければならない。観念が感覚と衝突してはいけないのであれば、絶対者に不満足な欲望や事実上の動揺はあり得ない。現前するものとは一致せず、相争うような観念的要素があったとしても、この不一致を取り除けば、不満足な欲望もすべて消え去るだろう。こうした不満足な欲望を、最低限にでも保つには、(私の見る限り)感覚を多様に性質づけ、不調和の瞬間を固定するような観念が存在しなければならない。

 

 しかし、この結論は顕著な可能性を無視していることになろう。不満足な欲望は絶対者には存在せず、外見上、苦痛の明瞭な均衡としてあらわれるかもしれない。第一に、すべての苦痛が解決されない闘争から生じねばならないと証明されてはいない。第二に、不調和が解決されても、我々の知る限りでは、苦痛は残るかもしれないと主張できる。苦痛に満ちた戦いにおいて、苦痛は実在であり得るが、戦いは表面的だと主張することもできる。間違いについて論じるとき(第十六章)、不調和な要素が、より広い複合体のなかではいかに中和されるか見ることになろう。そうした体系では、異なった配列が取られ、調和に満ちた結果が生じることを見いだすことになろう。ここでの不満足な欲望についての問題はこうである。それは不調和という性格をなくすために全体に混じり合うことが可能ではないのだろうか、苦痛は実在のなかに残りながら、欲望であることを止めることはできないのだろうか。もしできるなら、全体とは結局のところ不完全なものとなろう。というのも、調和の主が悲惨に沈む、あるいはあるバランスのうちに苦痛を受けることがあり得るからである。この反論は重要で、ここで議論する必要がある。最終章でももう一度扱うこととなろう。

 

 快と苦の条件について知識が欠けていることを私は感じている(1)。苦痛は解決されない衝突が原因、あるいは条件となっていることは筋の通った見方であり、殆ど反駁することはできない。事実そうなら、調和した、苦痛の均衡は不可能である。もちろん、苦痛は事実であり、いかなる事実も宇宙から追い払うことはできない。ここでの問題は苦痛の均衡ということにかかっている。ある混合した状態において、苦痛が快によって中和され、その均衡が明らかに喜ばしいのはごく一般的な経験である。それゆえ、宇宙全体において、快の均衡があり、全体的な結果として苦痛がなんの痕跡も残さないことは可能である。可能ではあるが、もし解決されない葛藤や不調和が苦痛に本質的なものなら、可能以上のことを意味する。実在は調和のとれたものであり、調和は苦痛の均衡に必要とされる諸条件を排除するのであるから、均衡は不可能である。私はこのことを非常に大きな疑問を提示する限りにおいて主張する。絶対者に苦痛を想定する権利が我々にあるかどうかを問うているのである。

 

*1

 

 この疑問は、もう一つの点を考えるとき、より重大なものとなる。単なる条件から苦痛に満ちた感覚という結果に移ると、我々はより確実な基盤に立つことになる。我々の経験では、苦痛という結果は動揺した不安な状態である。その主要な働きは変化を準備し、安定を妨げることにある。違った見方をする専門家もいることはわかっているが、私の見る限り、そうした観点は事実と折り合うことはできない。苦痛の結果は、ここでは最も重要な意味合いをもっている。絶対者には快の均衡があり、すべてに矛盾がないと仮定しよう。苦痛はそうした過程を条件づけることができ、過程として、全体としての生に消え去ってしまう。苦痛は快の余剰によって中和されるのである。しかし、他方で、苦痛の均衡を想定するなら、困難は克服しがたいものとなる。我々は調和の状態を仮定し、それとともに、不安定と不調和の条件を仮定する。一方で、諸要素が食い違うことなく、個々の観念が現前するものと相争うことのない絶対者における事物の状態を得る。しかし、他方において、苦痛とともに我々は変化と不安の源を導入し、必然的に存在と調和しない観念を生みだすことになる。事物のよりよい、またいまだ存在していない状態という観念は、理論的な安定を直接破壊するに違いない。もしそうなら、そうした観念は不可能だと言われねばならない。全体のなかに苦痛は存在せず、絶対者に我々の本性は満足を見いださねばならない。さもないと理論的な調和は存在せず、我々が見た調和は確かに存在せねばならないのである。この結論を避ける方法があるかどうか最終章でも問うことになろうが、いまのところ真として受け入れざるを得ないように思われる。絶対者が理解においては完璧であり、苦痛において安定しているという可能性を我々は認めるべきではない。宇宙にある現実的な欠陥の証拠の問題は第十七章で論じられることになる。我々のこれまででの立場はこうである。我々の本性のあらゆる側面が満足させられるべきだと直接的に論じることはできないが、間接的には同じ結論にたどり着く。我々は理論的な満足を仮定するよう強いられる。それが一面だけであり、実践的には不満足なのだという仮定は認めることができない。そうした状態は、一つの可能性ではあるが、自己矛盾であるように思われる。いかなる根拠も見いだすことができないなら、有する権利のない仮定である。現在のところは、想像も及ばないものだとして置いたほうがいい。(1)

 

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*1:(1)『マインド』xiii.3-14頁(49号)参照。

*2:(1)最終章で、この結論は僅かに変更されるだろう。この仮定はかろうじて可能なものとして止まるとされるだろう。