ブラッドリー『仮象と実在』 56

      ((d)活動、力、意志としての自己。)

 

 (d)次に私はある厄介な話題、自己の内部で実在をあらわにすると思われている精神力あるいは意志について勇をふるって述べなければならない。困難なのは、主題の性質というよりは、それを扱う方法からきている。もしこの問題について明確な言明を得ることができれば、この段階で我々の議論を数語で終わらせる、あるいは既に解決済みの問題だと言うことができる。しかし、明確な言明というものこそまさしく(私の経験による限りでは)得ることのかなわないものである。

 

 活動についての議論を思い起こしてもらえば、読者はそれがいかに諸矛盾によって事実上謎めいたものとなったかを思いだされるだろう。そこでは形容と関係と諸項についてのすべての難問が、時間や因果関係に関するあらゆるジレンマが一緒になり、新たなものが付け加わりさえしたように思えた。調和の取れたものになるどころか、我々が考えようとした活動性は救いようなくばらばらになり、食い違いを見せた。自己がこの混沌に秩序をもたらすと仮定するのは、自己のまったくの無能ぶりを経験してきた後では、合理的というよりは楽天的に思える。

 

 もし我々が、自己においてあらわになる精神力や根拠を意志と同一のものとみなしても、明らかにそれは我々を助けることにはならないだろう。意志力のなかには観念があり、自己の内部での決定的な変化があり、自己実現している。(1)意志力は恐らく、一見するところ、我々の形而上学的難問の解決を約束するように思われるかもしれない。というのも、我々は遂にそれ自身のうちに原因と結果をもつものを見いだしたかに思われるからである。しかしそれが幻影なのは確かである。時間における変化の始まりとその過程についての古くからの難問、同一性のなかにある多様性に関する古くからの混乱など--どうしてそのどれか一つでもが取り除かれ、より扱いやすいものとなろうか。世界を説明する原理を見いだしたかどうか尋ねても無駄なことである。というのも、いまだ我々は自らの重みに耐えることのできるもの、一瞬のごく表面的な考察にさえ耐えうるものを見いだしていないからである。もちろん、意志力は我々に実在の強い感覚を与える。もし望むなら、そこに事物の神秘の中心があると結論することもできる。多分そうなのだろう。ここに、それを理解する者にとっての答えがあるのだろう。問題は、我々がその理解に達することができるかどうかである。しかし、私に与えられるのは、理解されたというよりは、救いようのない混乱のうちに解釈された経験であるように思われる。ある人間の情熱を伝えられれば、愛だけが世界の秘密を明かすのだと感じもし知りもしよう。そうなるのはまったく適切なことであるが、なぜそれが形而上学と呼ばれるべきなのかはほとんど理解することができない。

 

*1

 

 もし、観念が実現される意志から、エネルギーのより曖昧なあらわれに後退したとしても、進捗はないだろう。活動、抵抗、意志、力(あるいは、もっとも謎めいたものであっても)の経験において、我々は最終的に実在の堅固な基盤に達すると言われている。私はここにあらわにされたメッセージの反証を挙げる程軽率ではない。疑いなく、それは神秘であり、その意味を告げ知らせることのできる者は、まさにそのことによって沈黙を強いられ、無知でさえあるとみなされる。私にできることは、いまだ伝えられていないものについての表面的な言明を簡単に書き留めることである。

 

 第一に、心理学的にとると、このあらわれは欺瞞的である。抵抗は言うまでもなく、活動に類するものは本源的な経験ではない。それは二次的な産物であり、その源は神秘的どころではなく、それについては以前の章で述べておいた。(1)不明瞭な諸感覚の顕著な周縁を指摘できることは確かだが、それには物事の本質的な部分は含まれないだろう。私はためらうことなくこう言うことができる。こうした経験を基本的なものとみなす心理学者がいるとすれば、彼はそれを真剣に分析してみようとはしなかったのであり、決然とそれが含む問題に直面しようともしなかったのである。第二に、形而上学的にとると、それがどんな源からこようが、意味がないか間違っている。ここで我々は再び極めて重要な点にいる。私はあなた方の託宣がどうであろうと、その途方もない心理学がどんな教えを説こうが気にしない。真の問題は、あなた方のお告げが(それが何ごとかを意味している限り)仮象や幻影ではないかどうかである。それがなにも意味せず、言ってみれば、単なる所与で、原理として受けとることができるような複雑な内容をもっていないなら、我々が快や苦痛で得ることができたものだけで十分だろう。しかし、それらによって世界を理論的に考慮しようとするなら、間違っているだけでなく、単純にばかげている。活動や力であっても、それが単に存在し、なにも告げてくれないなら同じことである。しかし、他方、そのあらわれが意味をもっているなら、私はのっぴきならないことになる。つまり、神託が余りに混乱しているので、その意味が定かなものでないのか、あるいは、ある明確な言葉であらわしてしまうと、その言葉が誤りとなってしまうかするのだろう。それを光のもとに引き出し、前述の批判にさらすと、その救いようのなさがあらわになる。それは解決されない食い違いが含まれていることがわかり、真実ではなく、詰まるところ仮象しか与えてくれない。この問題についてはそれ以上触れるつもりはない。

 

*2

*1:(1)意志の心理学的な性質については『マインド』49号で論じた。

*2:(1)私は一般的な形でのみ問題に触れている。あれこれの活動の知覚の諸要素が発する特殊な源についてはなにも言っていない。それは心理学に関する事柄である。