ブラッドリー『仮象と実在』 88

  ... (なぜ思考は滅びるべきではないのか。)

 

 第一に、我々の完成は物自体にあり、思考に本質的に知り得ないものを知らせるものであると主張されるかもしれない。しかし、この説は我々の全体が感覚経験以外のなにものでもないことを忘れている。そして、我々が「思考」を厳密な論証的形式と理解するとしても、我々の実在は感覚経験と離れては存在しないことを忘れている。絶対がそうした要素から離れてはなにものでもないことは断固として言える。一方、物自体は感覚経験から離れたものとして存在しなければならない。

 

 我々の見解に対するもう一つの反論に移ってみよう。目的は、思考が向かうものであるために、それ自体(単なる)思考であると言われる。思考は思考であることを止める完成を望むことはできないと仮定されている。しかし、川は海に流れ込み、自己は愛のなかで自らを失わないだろうか。さらに、優先権の主張は意志においても、また、美や感覚や快においてもなされるかもしれない。すべての要素が絶対における目的に達すると、この目的が個別に属することはあり得ないことになる。道徳性の場合についてこの原理を示すことができる。絶対は道徳を越えたものである故に単なる道徳を目的として欲することは本質的にない。個人的な生や努力の全体である人格でさえも人格以上の何ものかに向かう傾向がある。もちろん、絶対も人格的なものはもっているが、幸運なことにそれ以上のものであるので、絶対を人格的と呼ぶことは、道徳的かどうか尋ねるのと同じくばかげたことである。(1)

 

(1)更なる議論は第二十五章と二十七章で。

 

 しかし、自己意識において我々は真理と存在とが同一となる状態を実際に経験しているではないか、と言われるかもしれない。そこでは、いずれにしろ、思考は実在とは異ならない。しかし、十章においてそうした状態は存在しないことを我々は既に見た。対象が主体と同一な自己意識などないし、知覚されたものが自己全体を汲みつくす自己意識も存在しない。自己意識のなかでは、ある部分や要素、あるいは、一般的な側面や性格が全体とは異なり、背景と区別されるものとなっている。そして、背景はこの対象には決して吸収されてしまうことはなく、そうなることもあり得ない。自己意識において人間が感じるものは全体としてあらわれるのではないことはどんな実験によっても示されるところだろう。長い観察によってのみその全体が汲みつくされるのであり、そうした観察の結果は一事実として経験されることはできない。そうした結論は、ある特定の瞬間に真として証明されることはあり得ない。端的に言って、意識は感じられたものからのある要素の区別を含み、あらゆる要素を一度期に区別する意識は心理学的に不可能である。こうした不可能性が現実のものとなったとき、我々をジレンマに追い込むことになろう。というのも、差異が存在しないために区別がなく意識がないのか、区別が存在するために対象と実在との差異が存在するかだからである。しかし、自己意識に訴えるなら、いかなる瞬間にも私は私が考えることのできる自己以上のものであることは明らかである。感じにおけるどれだけが理解されるものであろうが、ここでは問題ではない。しかし、真理と存在とは同一であるとしても感じられるものは理解されるわけではない。もし理解が可能だとしても、そうした過程が思考でないのは確かだろう。

 

 思考において、考えている主体は思考以上のものである。それゆえ、我々は思考においてあらゆる実在を見いだすのだと想像することができる。しかし、同じようにして、実在全体は感じにおいても、意志においても見いだすことができる。それぞれが全体の一要素であるか、ある側面における全体である。一側面か要素を得たとき、それとともに全体をも手にするわけである。しかし、ある側面において全宇宙を見いだすにしても、宇宙にはこの側面を越えるなにものも存在しないと結論することはまったく非合理であるように思える。