ブラッドリー『仮象と実在』 73

      (更に、実在は実体的な一者である。実在の多数性は可能ではない。)

 

 この結論をもう一歩進めてみよう。我々は実在が一なるものであることを知っている。しかし、この一なるものというのは曖昧である。形容詞として多様性をもつ一つの体系なのだろうか、あるいは独立した実在の属性である整合性なのだろうか。端的に言うと、実在の多数性は可能であるのか、食い違わない限りにおいて共存できるのかどうか問わなければならない。こうした多数性は、互いに依存しあっていないような無数の存在を意味するだろう。一方においてそれは現象の多様性を有しており、既に見たように、この所有は本質的である。他方において、それは外的な侵害と内的な矛盾からは免れている。第一巻のあとでは、そうした実在の可能性は議論の対象にさえならなかった。というのも、それぞれの内的な状態は望みのない難点を生じさせるからである。第二に、実在の多数性はその独立と調和させることができない。この最後の結論を我々に強いた議論を簡単に繰り返してみよう。

 

 多なるものが内的性質を欠いていると仮定するなら、その成員は直ちに無となるので、それぞれはなんらかの存在であるとしなければならない。それらが多数であるなら、それはどうにかして共存している多様性でなければならない。その共存を非本質的なものととる試みは結局は意味のないことに終わるように思われる。一なるものとして捉えないなら、我々は多数の多様性についてなんの知識も持たないし、それについていかなる意味にも到達することはできない。この統一を抽象するなら、我々はそれと共に多数性を抽象しているのであり、単なる存在が残される。

 

 それでは、単に共存するような独立した実在の多数性を我々はもつことができるだろうか。いいや、絶対的な独立性と共存とは両立不可能である。絶対的な独立は一面的な抽象においてのみあるような観念である。関係から存在の側面だけを切り離す試みによってつくられる。そうした側面というのは、事実にあろうと思考にあるのだろうと、実際に分割することはできない。

 

 実在の多様性を我々が感情において、関係が存在しない段階において発見するものととるなら、この多様性は分割されていない全体の統一的な性格以外の場所では決して見いだされないだろう。もし我々が無理やりにこの統一を抽象するなら、そこには感情もあり、感情の多様性は破壊される。我々には多数性は残されず、残るのは存在だけであり、あるいは、こう言った方がよければ無だけが残る。感情における共存は自己充足性ではなく独立の例であり証拠であって、これがなければ更に難点が付け加わることとなろう。もし実在の本性が関係以前の段階に見いだされる多数性なら、現象の様々な関係を我々はどのように扱えばいいのだろうか。というのも、それは存在し、存在している以上世界を性質づけ、その実在はあらわれとは別のレベルで発見されねばならないからである。こうした立場は容易に正当化することはできないように思われる。

 

 かくして、感情において確かめることのできる共存のあり方は実在の独立性を破壊する。共存をどこに見いだそうがうまくはいかないだろう。というのも、どんな方法で共存を証明してもそこには関係が含まれていなければならず、それは自己充足性にとっては致命的だからである。関係は感覚される全体の、そしてからの発展であることは既に見た。それは不十分にではあるが、その背景に、多様性の存在しないような統一は無であることを表現し、含んでいる。関係は実体的な全体のなかでなければ、そしてそれに基礎づけられてなければ無意味で、関係の項は絶対的なものとされると、すぐに破壊される。多数性と関係とはある統一の特徴であり側面でしかない。

 

 実在がもつ関係が本質的だと見られ、それが理解されるやいなや、そこには実在の内的な相対性が含意される。そして、外的な関係を維持しようとするいかなる試みも必ず失敗する。というのも、間違ってはいるが議論のためだけに、その諸項を性質づけないような進行と配列を認めたとしても、そうした配列は少しも究極的なものではない。諸項が先行し、独立したものであるのは、<そうした>配列に関してのみであり、他の場合には相関的で、重要な部分をある全体に依存している。この統一から離れようとする項は、自身の絶対性を確立しようとするまさにその行為によって滅びるのである。

 

 それゆえ、複数の実在は自律したものであり得ず、もし自律しているなら、最終的には不整合に終わる世界として捉えられる。というのも、関係は存在しているから、なにかしら世界を性質づけねばならないからである。そのとき、諸関係は唯一で独立した実在を外的に性質づけねばならず、それは自己矛盾であるか無意味である。(1)独立した存在の多数性が理解不可能であると主張するのか、なんらかの理解不可能な事実が肯定されなければならないのか--答えは明らかである。理解不可能な事実は、第一に、それが事実である限りにおいて認められ得るし、第二に、内的に矛盾しない、あるいは我々の世界の見方を矛盾したものとしない限りにおいて意味があるとされる。しかし、申し立てられている複数の事実の独立は事実ではなく、理論的構築物である。それがある意味をもつ限りにおいて、その意味は自己矛盾し、問題は混沌に陥る。この種の実在は非実在と捉えた方が安全である。

 

*1

 

 それゆえ、我々はその関係に依存したものでない限り、多数性を維持することはできない。関係を避けようとして感情の多様性に戻っても、結果は同じである。多数性は、そこではある単一の実体的な統一の重要な側面となり、複数の実在は消え去るのである。

*1:(1)この簡単な発言に加えて、別の致命的な反論をつけ加えることができる。実在の相互活動と世界の一般的な秩序の間には問題がある。それを肯定しようが否定しようが、我々は迷路のなかに迷い込む。その知識は我々を再びジレンマに投げ込む。もし我々が多なるものが存在することを知らないなら、それを肯定することはできない。しかし、多の知識は知るものでも知られるものでもない自律した存在とは共存可能だと思われる。最終的に、関係が複数の実在に寄り添う存在だと認められないなら、複数の実在の単一の実在はあきらめられることになる。関係そのものは実在する事物の第二の種類になる。しかし、そうした新たな諸実在と古い諸実在との結びつきは、それを肯定するにしろ否定するにしろ、我々を解決することのできない問題へと導くのである。