ブラッドリー『仮象と実在』 232

[このことは絶対にも当てはまる。それは一なるものである。]

 

 絶対の主要な性格についていえば、我々の立場は簡単に言えばこうである。我々の結論は確かであり、それを疑うことは論理的に不可能だということを理解した。そのほかに観点はないし、その見解を越えて出されるような他の観念も存在しない。別の可能性を問題視することさえ合理的には不可能である。我々の主要な結論の外側には、完全に無意味なものか、精査すると実際には外側にはないかであること以外なにものも存在しない。かくして、端的に言えば、想定される他者は実際に同一のものであることがわかろう。あるいはそれは絶対に対する我々の見解の内部に含まれている要素であるが、位置をずらされ、間違った外観に歪曲されている。ずれそのものは我々の体系の限界の内部にその場所を見いだすことだろう。

 

 簡単に言えば、我々の結論は、それがすべての可能性を含んでいるために、疑うことはできないということである。我々にある観念を示してくれれば、それが我々の枠組みに敵意をもつように思えようとも、我々は実際にそのなかに含まれている要素を示すことができると主張できる。そしてその観念が我々の体系では自己矛盾の一片であること、盲目さだけがそれが外部にあることを空想できるたぐいの内的な断片であることを示すことになろう。我々はその独立や孤立は、世界において何ものでもなく、その性質の一側面以上を知ることができなかったのだと証明しよう。

 

 我々の謙虚さや弱さに対して衝撃を与えようとする訴えかけが我々を混乱に陥らせることはないだろう。ある意味、まさしくこの弱さに我々は自分の立ち位置を定めている。我々は宇宙を宇宙とその外部とに分割する能力はない。我々は自身の無能力と謙虚さを働かせるのにそれ以外の領域を見いだすことはできない。我々にとってその別の領域は見かけだけのナンセンスである。我々の弱さが根底にあるので、我々はそのナンセンスが事実であると推定するほど強いとは感じていない。別の言葉で言えば、我々は経験を超越するような意味のない試みに対して抵抗する。単なる疑いを働かせることはそうした試みを含むことがあり得、我々の主要な結論についてはそうであることは確かだと主張する。それゆえ、その輪郭においては、我々の結論は確かである。その確かさがどこまでのものか確認するよう努めてみよう。

 

 実在はひとつである。実在として捉えられた多数性は自己矛盾であるので、それは単純でなければならない。多数性は諸関係を含み、その関係を通じて、否応なく常により上位の統一を主張することになる。宇宙を多数のものと想定することは、それゆえ、自己矛盾しており、結局のところ、一つのものと想定すべきである。一つの世界に別の世界をつけ加えると、両者の世界は相関的になり、それぞれがより高い単一の実在の有限なあらわれになる。あらわれとしての多数性は(既に見たように)統一のなかに落ち着き、それに属し、統一を性質づけねばならない。

 

 ある拡がりにおいて、実定的な統一の観念を我々はもっている。(第十四章、二十章、二十六章)詳細において、どのように多数性が一つになるのか我々が知らないことは確かである。また、より正確な意味における統一が、多数性の矛盾からのみ知られることも確かである。それゆえ、別の側面によって対抗され、定義さえるような統一はそれ自体あらわれに過ぎない。この意味において、実在は正確に呼ばなければならないことは明らかである。しかしながら、統一を異なった意味に用いることも可能である。

 

 第一に、実在はあらゆる多数性によって性質づけられる。それ自体多数でなくとも、その多数性をもっている。複数性によりながらそれを越える実在は、その正反対である実在が吸収されてしまうような一面的な統一には対立するものとして定義される――そうした実在もその輪郭においては確かに実定的な観念である。

 

 この輪郭は、ある程度において、直接的な経験によって満たされる。我々が魂の最初の発達だと想定した、前相関的な経験の段階(459ページ)を強調することはないだろう。より平易で、疑いのより少ないものに言及することになろう。我々の区別がつくような複雑な心的状態を取り上げてみよう。そこで我々は複数性の意識を持っており、それを越え対立するものとして、統一の明瞭な観念を得ようとすることができる。さて、分析の結果である統一の観念は、区別のなかにある内的な多数性に対立して決定される。それゆえ、ある観点が別の観点に打ち勝つように、これは我々が探る統一の実定的な観念をもたらすことはないだろう。しかし、そうしたあきらかな観念がなにもなければ、我々は全体的な心的状態を一つものもとして感じるとは真にいえなくなる。その上、あるいは下に、のちに見いだす諸関係があり、相違が既に結びついた全体性があるように思える。(1)我々の立場は既に導入した相違を背景に感じられるように思われるが、同時に、相違は含まれており、既に全体に存在している。我々の状態をこのように描きだしたことで、我々が自己矛盾していることは確かである。というのも、差異の事実は、それを理解し、その本質を厳密に表現したとしても、本質的に関係と区別とを含んでいるからである。別の言葉で言えば、感じとは記述されず、それというのも、思考に翻訳されるような変容なしにはあり得ないからである。また、それ自体、この無差別な全体は不整合で不安定である。その傾向と本性は関係に関する意識を越え、それが破綻してしまうようなより高次の段階にある。にもかかわらず、あらゆる瞬間において、この漠とした状態は現実的なものとして経験される。それゆえ、我々はこの複雑な全体が単純な経験であることを否定できない。というのも、一方において、それらの状態は単純ではないが、また、他方においては、それは単なる複数性でもないからである。またその統一は明らかではなく、関係を維持し、多数性に反している。

 

*1

 

 普通の感情全体にこのことは容易に例証されるのが見てとれる。それは一つのものとしてあらわれるが、単純ではない。その多様性は少なくともその部分については、いまだ区別できず、諸関係にばらばらになってもいない。そうした心的状態は、繰り返しになるが、それ自体として不安定で束の間のものである。変化しうるばかりでなく、対象として消え去る。我々が留意する感情は、厳密にとれば決して正確に我々が感じた感情と同じものではない。というのも、内的な区別によってある拡がりが変容するばかりでなく、それ自体が新たに感じられる全体の一要素となるからである。対象としての感情は、また他方において、意識においてそれと対立する背景は、両者とも新たな感じの心的全体に従属的な要素となる(第十九章)。我々の経験は常に、ときにより、対象になることによってそのものが破壊されてしまうような統一である。しかし、そうした感情的全体が破壊されても、不可避的に別の全体に場所を得ることになる。それゆえ、我々が感じるのは、それが続く限り、常にひとつのものと感じられ、単純なものでも諸項や諸関係に分解されるものでもない。諸関係のもとにある統一の経験から、我々はそれらを越えたより上位の統一の観念を提示することができる。かくして、我々は実在がひとつであるという言明に十全で確実な意味を付与することができるのである。どんな場合でも、それに続く命題を肯定することには頑迷な反対者が非難するように思える。第一に、実在というのは実定的なもので、否定はそのなかに落ちつく。第二に、それが包含し従属させるあらゆる多数性によって実定的なものとして性質づけられる。第三に、だがそれ自体は多数でないことは確かである。そこまでいくと、少なくとも、誤った道筋を選ぶよりは統一を肯定する方が私自身には好ましい。

*1:(1)第十九章と比較せよ。