ブラッドリー『仮象と実在』 72

    (我々の評価基準は至上のものであり、単なる否定的なものではない。それは実在に関する実定的な知識を与える。)

 

 かくして、我々は判断基準を手に入れ、我々の判断基準は最上のものである。我々がいくつかの基準をもち、それが事物の性質について幾ばくかの情報を与えてくれることを否定しようとは思わない。しかし、そうであるにしても、我々がもっているのは真理についての支配的な検証法であり、多様な基準は(もしそれが存在するにしても)従属的なものであることは確かである。このことは、我々がそれらの基準を一緒にし、それらが一致するかどうか問うのを拒みはできないのであるから、すぐに明らかになる。あるいは、少なくとも、自身とのそして残りのものとの首尾一貫性に関する疑いである限り、我々にはいわば司法権が与えられている。検証や比較の結果、それが自己矛盾の罪にあるなら、それを現象として非難することになる。しかし、ある一つの裁判所に従うのでなければ、それは不可能である。それゆえ、我々は自己整合性の検証に従属しないような何ものも見いださないので、それを最上にして絶対的なものだと認めざるを得ない。

 

 しかし、それは実在についてなんの情報も与えてくれないと言われる。我々が考えるとき、確かに我々には不整合は許されず、この検証は無条件で絶対だと認められる。しかし、何ごとについての知識であれ、そこで我々は単なる否定以上のものを得るのだと主張される。(我々も認めたように)究極的な実在に自己矛盾は許されないが、(後に論じるような)それ自体による禁止や不在は確たる知識までには達しない。それゆえ、不整合の否定はなんらかの実定的な性質を保証するものではない。しかし、こうした反論は擁護できない。それは、単なる否定が可能であること、確かな根拠がないにもかかわらず、そうした拒絶を支える特別なものがなにもないにもかかわらず、ある述語を退けることができるということが認められる限りにおいて通用する。この間違いについては『論理学の諸原理』で反駁したので(第一巻第三章)(1)、ここで論じるつもりはない。この反論がより説得力をもつかに思えるもう一つの意味を見てみよう。判断基準そのものは疑いなく実定的なものである、とその反論は論じる。しかし、我々の知識に対してであり、結局のところ単なる否定的なものである。知識はそこに存在するが、そこから出ることはできないために、それは実在に関する情報をなんら我々に与えることはできないのである。判断基準は、否定の基盤として役立つ根拠である。しかし、この根拠はあらわにすることができないので、我々にできるのはそこに拠って立つだけであり、それを見ることはできない。それゆえ、結果的にそれはなにごとも我々に語らず、その主張はそれ以上進むことを我々に許してくれない。このような形で語られると、この反論は説得力があるように思え、ある意味では妥当であると認める用意もある。もし実在の本性というのが本性全体のことだとすると、そうした完全な形が知りうるとは私も主張しない。しかし、それはここで問題になっていることからはかけ離れている。というのは、この反論は、我々の基準が、完全であろうが不完全であろうが、真性の実在に関して<いかなる>確かな知識も、<いかなる>情報も与えはしないと主張しているからである。そして、この主張は明らかに間違っている。

 

(1)120頁12行目にある「でない」は間違いであり、取り除くべきである。

 

 この反論は、実在がなにを<するか>を知ることは認めるが、実在がなんで<あるか>についてはいかなる理解も許さない。基準(これは同意されている)は存在しかつ実定的な性格を有しており、この性格が不整合を退けることは同意されている。我々がそれを知っていることは認められるが、問題の点は、そうした知識がなんらかの実定的な情報を与えるかどうかなのである。私には、これは難しい問題ではないように思われる。というのも、私があるものを観察しているとき、どうしてそこに立ちその性質についてはなにも知らないと主張できるのか私にはわからないからである。ある働きが結局は無価値であることを、あるいはそれに帰すべき確かな属性をとらえることができないことはある。そうしたことだけ知ったとしても大抵の場合無価値であるのは私も認める。しかし、にもかかわらず、それはまったくの無知ではないのである。

 

 我々の基準は不整合を否定し、それゆえ、整合性を肯定する。もし不整合が非実在だと確言できるなら、論理的に言って、実在が整合的であることは確かであるに違いない。問題は、整合性に与えられる意味にかかっている。それは不一致の単なる排除ではないのであって、というのも、それは我々の抽象であって、それ以上のものではないからである。そこで、我々の結論はこうである。実在が実定的な性格をもっていることはわかっているが、この性格は現在のところ矛盾を排除するという形でしか定義されない。

 

 しかし、我々は更に進むことができる。我々は(前の章で)あらゆる現象は実在に属さねばならないことを見た。あらわれるものはそれがなんであれ、実在の外に出ることはできないからである。この結論をたったいま到達した結論に結びつけることができる。あらわれるものはすべて自己整合的なあり方で実在なのだと言える。実在の性格は、調和の取れた形で現象的なものすべてを有している。

 

 同じ真理を別の言葉で言ってみよう。実在は不一致を排除した実定的な自然であり、あらゆるものを保持する自然が実在である。その多様性は衝突し合わない限りにおいてのみ多様であることができ、他のあり方では実在であり得ない。別の側面から言うと、あらわれるすべてのものは実在であらねばならない。現象は実在に属さねばならず、それゆえに調和しており、あらわれているのとは別のものでなければならない。当惑するばかりの現象の多様性は、かくして、統一であり、自己整合的でなければならない。というのも、それは実在以外の場所では存在し得ないし、実在は不一致を排するからである。あるいはまた、こう言うこともできる。実在は個的なものである。その実定的な性格がすべての差異を調和のうちに包含しているという意味において一なるものである。この知識は、見られる通り貧弱かもしれないが、単なる否定や無知以上であるのは確かである。このようなものである限り、それは我々に絶対的な実在に関して確かな情報を与えているのである。