ブラッドリー『仮象と実在』 71

     (発達に基づいた反論。)

 

 こうした試みにある一つの錯覚についてついでに見ておこう。我々の判断基準は経験から発展したのもであり、それゆえに、少なくとも絶対ではあり得ないと言われることがある。しかし、まず、なにかから発展するものがなぜ弱いものとなるのかは明らかではない。第二に、理解されさえすれば、疑いそのものが崩壊してしまう。というのも、我々の判断基準の起源にあると考えられるものは、絶対的な検証を受けた知識によって伝えられたものだからである。あらゆる段階における証拠が無条件の真理に基づいているとき、その原理が疑わしいと証明しようとするほど不合理なことがあり得るだろうか。もちろん、この判断基準に立ち、それを用いて基準に反する結論を導きだし、それゆえすべての知識は自壊するというのは、我々を受け入れることのできない帰結に追い込むのであるから、非合理的ではない。しかし、それは我々が仮定する反論者が思ったような、あるいは歓迎する結果ではない。彼は、一般的に、心理学的発達が形而上学的妥当性に反するということを示したいわけではない。そして、判断基準が絶対的でないならば、廃棄されてしまうような知識、つまり、彼自身の心理学的知識をあきらめるつもりもないのである。我々の考えによれば、疑いはそれが懸命に疑問を投げかけているのものに基づいていることがわかる。それは実在についての我々の知識の絶対的確実性に盲目的な証言を投げかけているに過ぎない。