ブラッドリー『仮象と実在』 75

      (しかし、それは理論的な完璧性以上のものをもつだろうか。)

 

 この時点まで、我々が確保してきたのは、単に理論的整合性だと言うことができる。絶対は個別の経験において可能なあらゆる内容を保持し、そこにはいかなる矛盾も残り得ない。一見したところ、この理論的完全性は実際上の欠陥と窮状を伴ってのみ存在できるかに思われる。明らかに、我々が推論を進める限りにおいて、経験は調和で保たれており、少なくとも自己矛盾はせず、全体として苦しみとの均衡のうちに保たれている。さて、単なる悲惨さは、いかにそれが首尾一貫したものであっても、良いものであり望まれるものだと真面目に信じることのできる者はいない。問題は、このことによって我々の結論が粉砕されてしまうかどうかである。

 

 根本的に対立する意見を述べることも可能である。恐らく、苦痛は悪ではないから、反論は見当はずれだと主張したい者もいよう。善と悪の問題一般については後の章で論ずることになろうが、ここでは単に、私には苦痛が悪ではないという立場に立つことはできないとだけ述べておこう。我々の本性のすべてを満足させることができないなら、結論は完璧には遠いことを私は認めるし、むしろそう断言したいくらいである。害があることを認めざるを得ないような真実に落ち着いていることなど私にはできない。つまり、否定はできないにしろ、これまでの探求はまだ完成しておらず、結論は部分的でしかないと、正当であれそうでなかれ、私は主張することになろう。形而上学が自分の立場を守るなら、私が思うに、存在のあらゆる側面を考慮に入れなければならない。我々の欲望はすべて、個々に満足が約束されねばならないと言っているわけではない。それは不条理であり、まったく不可能である。しかし、我々の本性の主要な傾向が絶対のうちに成就しないなら、我々は完全や真理に達するとは信じられない。後に、どんな欲望が根源的で基本的と取られるべきなのか考えねばならない。ここでは、これまでの我々の結論に重大な欠陥があることを認め、この欠点が直接に修正できるのかどうか問うてみよう。実在は自己完結した体系であることを保証する理論基準の上に我々はいた。この体系が完璧な善への我々の欲望を満足させることを保証できるような実際的な基準を我々はもっているだろうか。肯定的な答えであればもっともらしいが、私には真実だとは思えない。疑いなく、我々は実際的な基準をもっている。しかし、それは実在に関する結論をもたらしてくれるようには思えないし、少なくとも、我々の求めてきた結論を直接に与えてはくれない。なにが足りないのか簡単に説明してみよう。