ブラッドリー『仮象と実在』 43

      (Ⅳ.モナドとしての自己。)

 

 我々はここまで、自己がなんら明確な意味をもたないことを見てきた。それは個人の内容のある部分とは言えない。また、日常性に還元されるような、平均的と捉えられるような部分でさえない。自己は本質的な部分や働きであるようなのだが、その本質がなんであるのか誰も本当にわかっているようには思えない。我々が見いだすことができるのは互いに不整合な様々な意見だけであり、そのどれ一つをとっても、その意味を明らかにするように強いられると誰も保持することができなようなものだろう。

 

 (4)個人の内容からある部分を選択する、あるいはその全体を受け入れることでは、我々は自己を見いだすことに失敗した。そこで、ある種のモナド、あるいはなんらかの単一な存在に位置づける気になるかもしれない。これに従えば、多様性と同一性のやっかいや問題が正々堂々と後回しにすることができる。単一体は単一体として存在し、ある領域において偶然と変化から守られると思われる。ここではまず、そうした存在の可能性に反対する我々の結論を思い起こそう(第三章、第五章)。次に、その本性の曖昧な点について少々指摘しよう。それが自己だというなら、いかなる広がりでどのような意味でそうなのだろうか。

 

 もしこの単位が人間の生涯と平行に動くもの、あるいは、動かずに、継起する多様なものとの関係のうちに文字通りに立っているものならば、それは大して我々の助けとなるものとはならないだろう。それは人間の自己に対して、(もし彼がもっているなら)星のような関わりしかもたず、上から見下ろし、もし彼が滅んでしまうにしても関心をもたないものである。この単位が人々の生に引きづりおろされ、ある意味彼の財産を傷つけるとしても、それがそうした単位のままだというのはどういう意味においてであろうか。問題となっているところだけをみると、我々はこうした結論を余儀なくされる。もし我々が自己がなにを意味するかをすでに知っており、その存在を指摘できるなら、我々のモナドは自己を考慮に入れた理論として提示されていたことになる。それは擁護しがたい理論ではあるが、少なくとも、なにかを説明しようとしている点で尊敬できる。しかし、自己の存在の現実的な事実にある諸制限についてなんの明瞭な考えももっていないなら、我々のモナドは古くからの混乱と曖昧さを残すことになる。さらに、それは我々が無知な諸事実に関わりのある問題へと我々を導くのである。私が言っているのは、単純な次のようなことである。自己が記憶から成り立っているという見解を受け入れ、ひとつのモナドでも、二つでも三つでも、記憶の原因となる事実が要求するだけの数を提示してみるとしよう。私はその理論を価値がないと考えるが、ある程度尊重する、というのは少なくとも幾ばくかの事実を取り上げ、それを説明しようとしているからである。しかし、もし曖昧な集合と、それに沿って存在する単位があり、第二のものが第一のものの自己だというなら、それがなにかを言っているとは私には思えない。私が見て取るのは、あなたがジレンマに向っているということだけである。モナドが多様性や多様性のある部分を有しており、そこに我々が個的なものを見いだし、あなたが自己の同一性を見いだすにしても、それとモナドの単一性とを調和させる必要がある。しかし、モナドがどんな性格もなく、個別的な性格から離れて存在するならすばらしいものだが、それを人間の自己と名づけるのは単なるごまかしである。これで十分だろうから、次の点に移ろう。