ブラッドリー『仮象と実在』 44

      (Ⅴ.関心を抱くものとしての自己。)

 

 (5)自己とは私が個人的関心として受け取るものなのだと思われるかもしれない。私のものだと感じられる要素が自己と見なされ、それがつまりは存在する自己のすべてなのかもしれない。そして、関心とは、全部ではないが、主に苦痛と快感に存している。それ故、自己とは多いときも少ないときもあるが、常に存在する感情の集まりであり、常に快感や苦痛がついて回る。そして、時に応じてこの集まりに結びつくのが個人的な出来事であり、自己の一部となる。こうした一般的見解は自己を新鮮な方法で捉える。しかし、明らかに形而上学にもたらされるものはほとんどない。というのも、自己の内容は時によって最も変化の多いものであり、たいていは争いあっている。そして、それは多くの異なった源から引かれるものである。事実、もし自己が我々が個人的に関心をもつものを意味するだけなのだとしたら、それはいつでも広くなりすぎる傾向をもつか、または狭すぎるものであろう。時間によってまったく異なったものになるようなのである。