C・S・パース「科学の論理について」 4

 2.非心理学的観点に第二の利点は、それが問題についての間違った考えを論破するのにもっとも便利な手段として役立つことがある。ミル氏の論理学の定義を例にとってみよう。「それは、証明の評価を助ける悟性の働きについての科学である。」この定義の心理学的性格は本質的なものである。この観点は単なる誤りではなく、根本的な誤りである。従って、ミル氏の論理学は、ロックの『人間悟性論』でそうであるように、その名で理解されるものとは違う。それにまた、ほとんどの論理学において、誤謬の主体が目立った場所を占めている。論理学の法則が壊れるかもしれないことが想定される。彼らは「~となろう」ではなく「~すべきだ」と言うが、端的にそれが事実についての主張ではなく負債をあらわしていることがわかる。しかし、どんな台帳にこの「すべき」は向けられているのだろうか。何を負債した考えなのか。言うことは不可能である。しかし、なぜ我々は論理的であるべきなのか。なぜなら、我々の思考が事実の表象やシンボルとなることを望むからである。それ故、思考がシンボルである限りにおいてのみ論理学が思考に適用されるのは明らかである。それ故、論理学が主に適用されるのはシンボルである。この事実を認めることによって、そうした法則の対象が法則に従わざるを得ないことは明らかである。すべての観念が「規範的な」法則だというのは誤りである。再び、カント派の誰もが仮定しているところでは、論理学の法則は思考の法則であり、考えられないものについては適用されない。Aは非Aではない、というのは真ではないといったことを主張する者もいる。非心理学的観点からすれば、それは系統的に明らかなものとなり、別な方法に従えば十分に公準となり、そうした法則は考えられるものばかりでなく、何らかの形でシンボル化されうるものに適用される。つまり、論争のすべてに渡って厳密さが拡大される。

 

 非心理学的観点の第三の利点は、それが直接的に確固とした仕方で問題を調査できることにある。心理学者は我々がかく考え、またかく考えないように常に要求し続け、彼らの語る考えがでたらめではないにしても、彼らの望むように心のなかで混ざりもののない状態にあるのでなければそれらについて語ることを非常に難しい問題だとする。しかし、私の見方が正しいなら、そうした形式も心的なものの可感的表象において研究されうるのである。心理学者は論理的真理が経験的に精神の観察から派生したという説に見合う考えに非常に陥りやすい。しかし、このことは彼らの体系と一致しない。このことを明らかにするために、しばらくの間形而上学を振り返ってみよう。普通一般、またときには哲学者たちにさえ区別されている内的世界と外的世界は、二つのまったく異なった経験であり、二つの部屋のように離れている。しかしこの表現の仕方は形而上学的虚構である。哲学する知性にとって、大きな過ちに陥るごく自然な一般的な意見の本質を明らかにすることより大きな仕事はない。真であるがわかりにくい見方を明らかであるが間違っている見方に変えることでよく起きる間違いが生まれる。しかし、一度知恵の実を食べたのなら、それをより食べるしか治療の道はない。我々は最初区別の線を引き、その線の引き方はまずかった。唯一の方法は、分析を推し進め、線をうまく引き直すことである。現在の例では、自己知識の二種類を区別することが重要である――それは一つが直接的なものであり、もう一つが間接的なものだと言えよう。自己についての間接的な知識とは、我々がいま関わっているような内的世界ではなく、我々に現前することなく、活発な思考の産物であるかのようなものである。あらゆる判断は整合性の条件に従う。それら要素は統一した形になれねばならない。整合的な統一は、我々のあらゆる判断にあるものなので、我々もそれに属していると言える。あるいはむしろ、それはあらゆる人類の判断に属しているので、我々がそれに属しているのだと言えるかもしれない。しかし、自己の世界、感覚の世界はそうした統一を含んでいない。むしろ、統一が感覚を含んでいる。感覚の世界は、そのとき、自己の世界ではなく、自己の諸例の世界である。我々は自分の感覚を直接的に知る。しかし、にもかかわらず、内部にあるものと外部にあるものを直接的には区別しない。というのも、この区別には、内的なものが外的なものではないと我々が判断する前に知っておく必要のある比較の行為が含まれているからである。しかし、それがどのようなものであれ、その判断が直接的であれそうでないのであれ、端的に次のこと、二つのものの違いを表象することが判断であることは認められるだろう。更に、判断は抽象を含む。あらゆる状況において、我々は外的、内的感覚両者を同時にもつ。つまり、我々は混合した感覚を持つ。我々はその感覚を空間にあるものとそうでないものと二つに分けることはできない。というのも、感覚はそれが何であれ、すべて空間と結びついているからである。我々は空間についてであろうとそうでなかろうと、部分間の関係を切り離すことはできる。確かに、たとえば、光と闇のような空間のものではないすべての関係は内的な関係ではない。内的な世界は実定的な定義をもたないに違いない。内的なものはすべて、現在の意識でないなら、記憶によって知られる。しかし、意識と記憶を比較できないなら、我々は自分自身の意識に達することはできない。離れたところについての直接的知識と同じ意味で、過去の直接的意識は矛盾している。どちらの場合も、それらを現在にもたらすために何らかの仕掛けが必要である。我々が直接的意識をもつ過去は思い出された過去だが、記憶とは感覚や活発な意識を欠いた機械的能力でしかない。我々が知識は直接的であると言うとき、機械的な媒体を排除しようとしているわけではない。内的な世界とは記憶の世界であり、内的なものを除いては我々がなにも思い出せないことは明らかである。そして、記憶の世界は時間の世界である。それゆえ、内的世界と時間の世界は同じである。それらを分離することができず、内的外的世界が完全に重なり合うことを当然のことと認めて、もう一つの点に向かうとしよう。内的外的世界の他に第三の世界が存在する。それら三つの世界は共存し、あらゆる経験を含んでいる。我々がある経験をもつとしよう。その経験は三つのことで決定されている――経験の背後にありそれを決定する下層、基底への三つの異なる関係がある。第一に、我々の外にある対象がもたらす限定がある――我々はそれを空間に広がるものである故に感覚する。従ってそれは外的世界にある。第二に、我々自身の魂による限定があり、それが我々の経験である。我々はそれが時間において継続するが故に感覚する。感覚のひらめきが、一瞬にもあたらず、記憶にもまったく残らないなら、それを我々のものと考える時間もないだろう。しかし、それがある程度続き、それについて反省するなら、それは内的世界に入る。我々は経験を対象を変え、魂を変え限定するものと考えている。それはまた普遍的精神の観念、既に存在する原型的な観念を限定するとも言え、またそう考えるのが自然である。数字の法則である代数は、数えられる前に、数えるような精神が創造される前にあった。それは存在してはいなかったがあった。それは事実でもなく思考でもなかったが、発せられない言葉であった。我々は経験を深い響き、論理的な意図による原型的なロゴスによる限定と感じ、そこには論理的世界がある。

 

 この見方とヘーゲルとの大きな相違に留意せられたい。ヘーゲルは、論理は純粋な観念の学だという。私はそれを、観念による限定がある故に経験の諸法則についての学だと、別の言葉で言えば、論理的世界についての正式な学だと述べるだろう。

 

 この観点からすると、知性が思考においていかに働いているかを突き止めようとする努力は、――つまり、内的特徴についての調査と言えよう――論理的作家がいかにその見方が曖昧であれ目的としてもつのは、外的特徴の調査と変わらないのだ。