レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 12

 本質を構成するものとしての言語の観念は、常に、こうした還元の危険にさらされている。しかしながらそれは、孤立した独創的な語が観念論に向かう方向においてのみではなく、客観的唯物論実証主義においても、「世界」や「現実」や「社会現実」が、あらかじめ存在する規制として範疇化され、言語がそれに対する単なる反応に過ぎないかのようにとらえられるときに実際に起こっていることなのである。

 

 この一節において、マルクスエンゲルスが実際に言っていることは、同時性と全体性とを指している。「根本的な歴史的関係」は「契機」或いは「側面」として見て取られ、人間はそのとき「意識もまた有する」のである。その上、言語は物質的なものである。「空気や音の撹拌」は物理的な身体によって生みだされる。切り離すことのできる行為として考えられた「物質的生」の時間的先行などは問題にならない。人間特有の基本的物質生産は必要、新たな必要、人間による再生産という三つの局面において特徴づけられる――「もちろん、それは異なった三つの段階としてとらえられるものではなく・・・歴史の始まり、最初の人間から同時に存在するものであり、今日においても変わらずにある」。発達において人間に特有なものは第四の「局面」において表現され、その生産は当初から社会的関係でもあったのである。それは、必然的な要素として、始めから言語である実践的意識を含んでいた。

 

 かくして、発達という分解することのできない全体性における、主要な「本質」が強調される。しかし、この方向においては、全体的過程の諸局面の分析とした始まったものが哲学的或いは「自然な」カテゴリーへと発展していき、――単純な唯物論者は観念論の「言語」と「現実」との分離を、時間的順序を入れ替えるだけでそのまま保持する――まず最初に物質的社会生産があり(またと言うよりむしろ)次に言語があるという歴史的なカテゴリーへと向かう様子は容易に見て取れる。